「柳明神社(やなみょうじんじゃ)」への坂を上っていくと、左側に石碑群があった。
右二つの石碑には「道祖神」の文字が。
左側から
①五輪塔
②角柱型文字「道祖神」塔(上部丸)・・1874(安永3)年
③角柱型文字「道祖神」塔・・1822(文政5)年
そして正面に見えて来たのが「柳明神社」と「柳観音堂」。
その前方に向かい合うようにあったのが「柳明天満宮」。
横浜市泉区上飯田町4103。
社殿。もちろん菅原道真を祀っている。
「柳明神社」の末社なのであろう。
天神さんにつきものの梅の花も咲きだして。
そして向かい合う形で「柳明(やなみょう)神社」。
「柳明神社
廃寺になった鎌倉郡24番札所「大石寺跡」に、村境の伊勢山に祀られていた神明社を
遷したものです。昭和50年に「柳明神社」と改められました。
大石寺が廃寺になっとき本尊の観音像を阿久和村の観音寺に預けました。その後、村に不幸が
起こったため、境内に観音堂を建て観音像を安置しました。神社裏の道の分岐点には、
八王子道(鎌倉道)と神奈川道の道標が立っています。神社前には柳明天満宮もあります。泉区役所」
実際には、「八王子道」と「大山道」でなのだろう。
新装なった「柳明神社」。
扁額も「柳明神社」。
内陣。
「日露戦争従軍碑」👈リンク
明治三十七年(一九〇四)に始まった日露戦争に、泉区上飯田町柳明からも従軍したのであろう。
柳明神社の境内に明治三十九年に地域の人々や「子供中(こどもちゅう)」によって造立された
「日露戦役従軍之碑」と刻まれた碑が立っていた。
碑には、柳明から従軍した「桑原林蔵、石井治三郎、羽太喜兵衛、石井広助、石井元太郎、
石井佐市、石井庄太郎」の六人の名前が刻まれている。
この碑にある石井広助は、村長、県会議長等を勤めた石井仁左衛門の子息である。
明治三十七年に乃木大将の第三軍に属し、小隊長として旅順(りょじゅん)攻撃に参加し、
銃弾に倒れた。享年二十八歳の時あった。
境内の御神木・欅。
境内の石塔群。
角柱型文字「奉再興山王大権現」塔・・「寛政十一己未年」(1799年)と刻まれていると。
笠付角柱塔庚申+三猿?。
???
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「観音堂」を見る。
扁額「南無十一面観世音菩薩」。
内陣。
鍵のかかった扉の奥に「十一面観世音菩薩」が納められているのであろう。
「六地蔵」
「観音堂」の前に、「當寺本尊十一面観世音」と刻まれた石塔があった。
「宝暦十庚辰霜月吉日」(1760年)と刻まれていると。
台石には「大石寺」と彫られていた。
側面には「鎌倉郡二十四番札所 上飯田村 鎮守 大百権現 十方施生」とある。
碑文から、当時は、大石寺と呼ばれ、鎌倉郡観音三十三か所の二十四番札所になって
いたようである。
「西国・坂東・秩父観音百か所めぐり」だけでなく、当時は、「三浦郡観音三十三札所」
「鎌倉郡観音三十三札所」などのように、郡単位の観音札所めぐりも、盛んに行われていた。
「観音堂」。
角柱型文字「堅牢地神塔(けんろうじしんとう)」。
横浜市泉区上飯田町4579。
台座には「柳明中」と刻まれていた。
堅牢地神(けんろうじしん)は、仏教における天部の神の1 つで大地を司る。
通常は女神であるが密教では男神と一対とする。十二天の一である地天と同一視される
向きもある。
堅牢地天、堅牢地祇、あるいは単に堅牢と呼ばれる場合もある。大地女神として、地の堅牢と
神の不壊とに解釈される。つまり大地を堅固ならしめる神である。また仏法が流布される処に
赴いて、その仏・如来の法座の下にあって警護するという。
南大山道/北八王子道/東神奈川道道標、1861(文久元)年
上飯田町4572から宅地造成のため移転したのだと。
「柳観音堂」の裏は「柳明会館」が。
そしてネットには柳田国男の「水曜手帳」👈リンク に「柳明」に村についての
記事があるのだと。
・・・もどる・・・
・・・つづく・・・