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カテゴリ:茅ヶ崎市歴史散歩
【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次
この日は「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の2回目の3月24日(木)。 JR辻堂駅で下車し、茅ヶ崎市に向かって歩き出す。 ![]() 辻堂駅南口に出る。 ここ辻堂駅の開設は明治20年(1887)、横浜~国府津間を東海道線が開通した。 大正3年(1914)には辻堂にも駅を開設させたいと「辻堂停車場期成同盟会」が 設立され、鉄道院に請願書を提出した。 新駅開設の理由はおおよそ3点で ①藤沢~茅ヶ崎間が長く、住民にとって不便。 ②辻堂一帯が雑穀、甘藷の生産地で移出量が多く、また、工業地としての将来性がある。 ③海岸海軍演習場への兵員、物資輸送に不便。 というものであった。 その結果、停車場敷地2,498坪と建設資金2,483円を地元住民が提供した こともあり、大正5年(1916)12月1日に辻堂駅が開業した。 辻堂駅南口に立つ「辻堂駅開設記念碑」には、今もその時の歴史事情が刻まれている。 ![]() 「辻堂駅開設記念碑」 1872年に新橋-桜木町間で開通した鉄道は1887年7月に国府津まで延長された。 辻堂駅は国府津迄延長された26年後の1913年に先ず、信号所が設置された。 しかしながら、客扱いをするまでにあと3年待たねばならなかった。信号所が開設された 翌年に地元に停車場設置期成同盟会が発足し、駅設置運動が始まった。 1916年12月に用地と建設資金を地元が負担して駅が開業した。 ![]() 表面にはひたすら漢字が・・・・。 「辻堂駅開設記念碑」👈リンク。 碑文の文意は下記であると上記リンクから 『相模の地は西北に山を負い、箱根・足柄・丹沢・雨降(大山)がうねうねと長く連なっており、 東南は直接、太平洋に臨み一大湾曲をしている。 その沿岸、三浦半島から鎌倉郡江の島に至るを 東部と、高座郡・中郡を中部と、足柄下郡を西部としている。そして、東部は屏風のように 折れ曲がり、西部もまたその一半は岬や磯が入り混じっている。ただ中部のみは其の高座と いわれるように、後方、はるかに富士山が晴れ渡った大空に控え、前面の近くには伊豆七島を 太平洋の波の向こうに見える。 白砂青松、風光明媚にして気候は避暑にも寒さを凌ぐのにも よい。 湘南で一番景色が良いというべき所が辻堂である。 この地は東海道線の線路に沿って 藤沢と茅ヶ崎の間にあって、鉄道院では未だ駅を設けるには至っていない。この地方の人達は 大変に残念がり、ここにおいて資金を出し、土地を提供して鉄道院に請願をし遂にそれを 受け入れて貰う事と成った。大正五年(1916年)十二月一日停車場が竣工・開通して 辻堂駅と云う名前になった。今後はこの地方が繁栄して行くのを待つだけである。 ここに資金提供者の名を碑の裏に列記し、併せて由来を記録する。』 ![]() 裏面には建設資金を提供された地元の方々の名前、寄付額が刻まれていた。 ![]() 「辻堂駅開設記念碑の由来 この記念碑は、大正五年十二月一日辻堂駅開駅を記念しその歴史的意義を後世に伝えるため、 辻堂停車場設置期成同盟会が建立した。 辻堂駅の開設は全国でも類のない地元請願駅で駅舎用地と建設資金を地元有志が提供し、 当時の鉄道院総裁に強力な設置運動を展開した結果実現した。 開駅八十周年記念にあたり地元の要望により再建整備を行った。 平成八年十一月吉日 藤沢市」 ![]() スマホのナビに従い、藤沢市「辻堂青少年会館」の前の道を進み突き当りを左折。 ![]() 次の路地を右に曲がると、左手前方に「案内板」が。 ![]() 「源 頼朝公 落馬地」案内板。 ![]() 「源 頼朝公 落馬地 藤沢市辻堂ニ丁目十七ー一 建久九年(一一九八)戌午十二月二十七日 将軍源頼朝公、稲毛重成の亡妻元子、追善供養のため造らるる、相模川橋の法要供養に臨席の、 頼朝公が鎌倉の館へ帰途、 八的ヶ原(辻堂)に差しかかりし時、突然落馬する難に遭遇する。 落馬地は京・鎌倉往還(三浦藤沢信用金庫辻堂支店駐車場前)「保暦間記」に「建久九年の冬、 右大将(頼朝)殿 相模川の 橋供養源氏・義広、義経、行家己下の人々の怨霊現じて、 将軍の目を見合せり」と記され、八的ヶ原とは辻堂の地を指している。 源平物語り関係の書物には、将軍頼朝公は怨霊が目に現じて、落馬したと記述されているが 果たして真相は。 頼朝公だけしか知る人はいない。 今を去ること八〇九年前、この地にて頼朝公は落馬し、意識喪失し急遽鎌倉の館に護送された。 その後も昏睡状態が続き、 一月十日頃には一時回復し、京都の九条兼実宛「今年必ズ、 シズカニノボリ他ノ事沙汰セント思ヒタリケリ、万一事存ノ外ニ候」 と書状を認めた後に 再発し、建久十年己未(一一九九)一月十三日 薨去 享年五十三歳 郷土史家 大石静雄(文責) 平成十九年丁亥(二〇〇七)十二月二十七日 設置 辻堂駅前町内会」 ![]() 私は市内住人であるが、この場所が源頼朝の落馬の地であることはこの日に初めて知ったので あった。しかし源頼朝の「落馬地」と「死因」には「様々な説」👈リンクがあるのだと。 前回訪ねた、「鶴嶺八幡宮」の参道入口近くにあった「弁慶塚」の案内板には、 「頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮附近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、 乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年一月死去した。」とあったが その真相は如何に。確かに辻堂には鎌倉往還・鎌倉街道が通っていたのだが。 「真相は頼朝のみぞ知る」のであるが、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、どのように 描かれるのであろうか。 「初多良公園」の桜は僅かに開花を始めていた。 ![]() ズームして。 ![]() 桜の下には可憐なスイセンの花が。 ![]() 茅ヶ崎市との境にある住宅街を南に進む。 ![]() 通勤の為に駅に向かう人の姿も少なく。時間は7時直前であったが。 ![]() そして茅ヶ崎市に入り、茅ヶ崎市の雨水マンホール蓋にカメラを向けた。 烏帽子岩とカモメをデザイン。 烏帽子岩は戦前はもっと尖った形状をしていたのだが、戦後アメリカ軍の演習用の標的と されたため、先端が欠けてしまったのだそうだが真実なのであろうか。 ![]() そして「日本キリスト教会茅ヶ崎東教会」が右手に。 ![]() 茅ヶ崎東教会は、日本キリスト教会という教派に属している。 この教派は日本に最初に建てられたプロテスタント教会(日本基督公会1872年・明治5年建設 =現在の横浜海岸教会)であるとのこと。 神奈川県茅ヶ崎市浜竹3丁目5−58 ![]() 十字架をズームして。 ![]() 3月27日(日)に「主日礼拝」が行われると。 説教「まことに彼はわれわれの病を負い(ニ)」と。 ![]() 「草は枯れ 花はしぼむが わたしたちの 神の言葉は とこしえに立つ」と。 自然界にあるもの、また人間界にあるものは、すべて移り変わります。 しかし、神のことばは永遠に変わることがありません と。 ![]() 「今月の聖句 自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。」 「 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、 力強いものに復活するのです。」と。 ![]() 民家の庭のユキヤナギ(雪柳)の白き花。 ![]() 「浜竹通り」に出る。 ![]() 住宅街の中にあった「大八木」家の大きな墓地。 ![]() そして「高山稲荷」に到着。 神奈川県茅ヶ崎市浜竹2丁目9。 ![]() 石鳥居の扁額「高山稲荷」。 ![]() 石造りの社殿。 ![]() 近寄って。 ![]() 祭神:稲荷社。 御利益:商売繁盛、五穀豊穣 他。 ![]() 「安曇野型双体道祖神」。 平成二(1990)年 。 ![]() 左手に「駒型文字道祖神」碑。 文政十一(1828)年。 ![]() 境内の河津桜も葉桜に。 ![]() JR東海道線線路に向かって北に進む。 先程の墓地のあった家であろうか。 立派な門と自然石を積み上げた石塀が続いていた。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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