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カテゴリ:茅ヶ崎市歴史散歩
【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次
国道1号の歩道脇には花壇が整備されパンジーが植えられていた。 ![]() 様々な色のパンジーの花が。 ![]() 日本橋まで(から)56Km地点を通過。 ![]() そして右奥の駐車所の片隅にあったのが「坂下稲荷神社」。 神奈川県茅ヶ崎市小和田1丁目1−63。 ![]() 朱の鳥居には「正一位」と。 ![]() 小さな社殿であったが。 ![]() 内陣には狐様が鎮座。 ![]() 「坂下稲荷新築記念碑 平成十年五月吉日建之」と。 ![]() そして更に進むと、右手前方に「茅ヶ崎警察署 小和田交番」があった。 ![]() その先には、以前旅友と立ち寄った「丸亀製麺茅ヶ崎」店。 ![]() 「丸亀製麺茅ヶ崎」店の先を右に入った場所にあったのが「稲荷社」。 神奈川県茅ヶ崎市松林1丁目17。 ![]() 朱の鳥居が2基。 ![]() 「石灯籠」。 ![]() 小さな朱の稲荷社殿。 ![]() 50m程先にも神社があった。 「茶屋町稲荷大明神」。 神奈川県茅ヶ崎市松林1丁目15−1。 ![]() ここには石碑が三基並んでいた。 ![]() 右から「道祖神」碑、「御嶽山大権現」碑。 「御嶽山信仰の歴史は、遠く平安・鎌倉・室町時代に興った民間信仰と山岳信仰が結びつき、 御嶽山も最初は修験道の場として独自の山岳信仰として栄えるようになったといわれています。 そして徐々に厳しい修行を重ねた道者といわれる人々が集団で登拝することが風習となりました。 そんな中、1784年(天明4年)に尾張の行者・覚明(かくめい)によって三岳村の黒沢口が 開かれ、続いて1794年(寛政6年)には武蔵國の行者・普寛によって王滝口が一般民衆に 開放され、これを機に木曽周辺で留まっていた御嶽信仰が全国的な信仰へと広がっていきました。」 とネットから。 ![]() 左は庚申塔・6臂の「青面金剛立像」であろうか。 ![]() 「茶屋町稲荷大明神」の石造りの社殿。 ![]() 隣には社に入った石仏が。 ![]() 近づいて。 ![]() そしてその南側にあったのが大きな石碑。 ![]() 「陸軍歩兵上等兵勲八等須田磯吉之墓」と。 ![]() 「須田家之墓」。 この地区の名家の墓地なのであろう。 ![]() 「須田家之墓」を振り返って。 ![]() 再び国道1号を下って行った。 ![]() 左手にあったのが「牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)跡」案内板。 ![]() 「徳川家康 は、慶長六年(1601)、東海道に宿場を設けて伝馬の制度を定めました。 その後、宿場と宿場の間にも旅人などが休んだりする立場という施設ができてきました。 藤沢宿と平塚宿の間には、四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場ができました。 立場には飲食ができる茶屋がありました。「牡丹餅立場」は牡丹餅が名物なのでそのように 呼ばれていました。 また、牡丹餅立場には、紀州の徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ 専用の飛脚中継所である七里役所も設けられていました。」![]() 「東海道分間延絵図」。 「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて 作成した詳細な絵地図である と。 絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれている。 また一里塚、道標、橋、高札なども描かれている。 ![]() 「東海道分間絵図の現代語訳」。 小和田村から浜之郷村の間の地図。 右側の曲がりの頂点近くに「ぼたもちちゃ屋」の文字が。 ![]() 「東海道細目分間之図 元禄三年(一六九〇年)に浮世絵師菱川師宣が描いた東海道図のうち当市域の一部、小和田村から 浜之郷村の間です。 東海道沿いに、牡丹餅茶屋、一里塚、南湖立場の茶屋、鶴嶺八幡社などが描かれています。 海には姥島が見えます。 元禄時代には、牡丹餅、南湖の両立場が成立していることがわかります。」 ![]() 更に進むと道路の両脇に松並木が。 ![]() 鋭く曲がった松の樹。何代目に当たるのだろうか。 ![]() 茅ヶ崎に住む旅友邸を訪ねる時によく立ち寄るコンビニが右手に。 ![]() この日は「茅ヶ崎高校前」交差点を右に曲がらず直進する。 ![]() その先にあったのが「東海道の松並木」案内板。 ![]() 『五十三次名所図会 七 藤澤 南湖の松原左り不二(竪絵東海道)』 「東海道の南湖(茅ヶ崎市)の松並木の風景を描いています。 南湖は藤沢宿と平塚宿の間の立場(宿と宿の間の休憩場所)のあったところで、 京都に向かっていく中で富士山が左に見える「左富士」の名所の一つでもありました。 現在でも鳥井土橋(とりいどばし)から、きれいな「左富士」を見ることができます。」と。 ![]() 「東海道の松並木 茅ヶ崎市内の国道一号線沿いの黒松は幹回り(地上より1.2メートルの高さで測定) 2.2メートル(推定樹齢400年)の大きな松が育っております。 遠い昔より、地域の人達に親しまれ江戸時代の松並木は旅人にやすらぎをあたえ、 この風景はその時代の画家、安藤広重の東海道五十三次にも描かれています。 長い間風雪に耐え今日では茅ヶ崎の貴重な文化財です。みんなで大切にしましょう」と。 ![]() 更に進み「市立病院入口」交差点を右折すると左側に「海前寺」👈リンク があったが ここも以前訪ねているので、この日は訪ねずに更に国道1号を進むと「本村」交差点に 辿り着いたのであった。 ![]() そして「本村」交差点を右折した先にあったのが「本村のタブノキ」 神奈川県茅ヶ崎市本村4丁目19−28。 ![]() 横断歩道を渡りタブノキの下に。 ![]() 「本村のタブノキ 市内の自然植生の代表的な樹種であるタブノキの巨木で、樹齢約450年と言われている。 市街地では珍しく自然の形で大きく育っており、変わりゆく周囲の景観とは対照的に、 ずっと変わらない姿で在り続け、緑のある沿道の景観を創り出している。 指定番号 茅ヶ崎市景観重要樹木第4号」 ![]() この街路樹のピンクの花は?花桃であっただろうか? ![]() 「本村のタブノキ」の後ろの路地を西に向かって進む。 右手にあったのがこの付近の名家の立派な門。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.05.20 05:49:05
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