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2007年08月17日
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「わたしの非暴力」森本達雄訳より(「ヤング・インディア」1920/8.11)

卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている。
だからこそ、1908年にわたしが瀕死の暴行をうけたときに、わたしの長男がその場に居合わせたとしたら、彼はどうすべきであったかー逃げ出してわたしを見殺しにするべきかそれとも彼の腕力に訴えてわたしを護るべきであったかと尋ねたとき、わたしは息子に、暴力に訴えてもわたしを護るのが彼の義務(つとめ)であると語ったのである。

けれどもわたしは、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵をゆるすことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。
宥恕は武人を飾る。
しかし、ゆるす側に罰する力があるときにのみ、自己抑制はゆるしとなる
無力な者が寛大を装ったところでそれは無意味である。
鼠は、猫に八つ裂きにされるがままになっているとき、猫をゆるしてはいない。
それゆえに、ダイヤー将軍とその一味の者がしかるべき罰を受けるべきだと叫ぶ人たちの気持ちは、わたしにはよく分かる。
できることなら、彼らはダイヤー将軍を八つ裂きにでもしてやりたいと思ったのであろう。
けれどもわたしは、インドが無力だとは思わない。
またわたしは、自分が無力な人間だとも思っていない。
ただわたしは、インドとわたしの力をよりよい目的のために用いたいと願うだけである。

力は体力からではなく、不屈の意志から来るのである。
・・・真の宥恕とは、自分の力をはっきり認識することになるだろう。
この自覚したゆるしの心とともに、われわれの内に、ある大きな力の潮がやって来なければならない。

そしてそれは、ダイヤーのような高慢な者にまで、インドの謙虚な頭(こうべ)に無礼を加えることを不可能にするだろう。
われわれはあまりにも踏みにじられているために、怒りや復讐心を抑えることはできない。
けれどもわたしは、インドが懲罰の権利を放棄することによって、いっそう多くのものを得ることができるといわずにはいられない。
われわれには、なすべきもっと立派な仕事が、世界に伝えるべきもっと高い使命がある。

わたしは夢想家ではない。
わたしは実際的な理想主義者であると自認している。
非暴力の宗教は、たんにリシ(賢者)や聖者たちのためのものではない。
それは同様に、一般庶民のためのものである。
暴力が獣類の法(のり)であるように、非暴力は人類の法である。
獣類にあっては精神は眠っており、獣類は肉体の力の他には法を知らない。
人間の尊厳は、より高い法に、すなわち精神の力に従うことを要求する。

それゆえに、わたしはあえてインドの前に、自己犠牲という昔の法を提起したのである。
なぜなら、サティヤグラハ(真理把持)とその分枝である非協力運動や市民的抵抗は、全て受難の法に与えられた新しい名称にほかならない。

暴力のさなかにあって非暴力の法則を発見したリシたちは、ニュートンよりも偉大な天才たちであった。
彼らは、ウェリントンよりも偉大な戦士たちであった。
リシたちは、自ら武器を用いることを知っていながら、その無益なことを悟り、救いは暴力によってではなく、非暴力によってもたらされることを、疲れ果てた世に教えたのである。

非暴力は活動的状態においては、自らすすんで苦しみを甘受する。
それは、悪をなす者の意志にいくじなく服従するのではなく、全心全霊をもって圧制者の意志に抗することを意味する。
この人類の法に従って行動するとき、一個人が、彼の名誉や宗教や魂を救うために、不正な帝国の全権力を拒否し、その帝国の崩壊とその復興の基礎をおくことも可能である。

こうしてわたしは、インドが弱いために非暴力を実践するよう説いているのではない。
わたしは、インドが自らの力と能力を自覚しつつ非暴力を実践することを望む。
その力を達成するためには、武器によるいかなる訓練も必要ではない。
(略)

もしインドが剣の教義をとるならば、インドは一時的な勝利を得るかもしれない。
だがそのときには、インドはもはやわたしの心の誇りではなくなるだろう。
・・・
わたしは、インドが世界に対して使命をになっていると断じて信じている。
・・・
わたしの生涯は、それこそがヒンズー教の本質であると信じている非暴力の宗教をとおして、インドに奉仕するために捧げられているのである。









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最終更新日  2007年08月17日 23時34分07秒
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