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2007年09月18日
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5 相馬二宮尊親氏談話(翁の嫡孫尊親氏、さきに10年間北海道十勝における新村建設に従事されたが、明治40年、功成りて相馬に帰住される)

報徳の遺跡は、相馬においては有形上には存しています。
たとえば仕法で、まっすぐに作った道路を、仕法が止んだからとて曲げはせぬ、開いたたんぼを荒らしはせぬ、掘った溝渠を埋めはせぬが、
しかし報徳の結社、日常の行状等は、割合に進歩しませぬ。
今後は漸次に進むでありましょうが、今日までのところ、割合に著しいものはありませぬ。
富田高慶が、いつも翁の言葉だといって、説いていましたが、それは
「上国はそのままに、うちまかせておいても可なれども、下国は不断に世話するを要する。
上国は温泉のごとし、放置しても冷めることはないが、下国は風呂のごとし。薪を継ぎ、火をたかねば冷める」と申すのですが、相馬の有様はあたかも仕法の薪が切れて、風呂の湯が冷めたようなものです。

報徳の仕法ははなはだ面倒なものでありました。
もとより起廃救亡の難事業であれば、干渉も厳密ならざるを得なかったのです。
しかるに維新の革命は、百事を破壊しさったので、従来仕法の窮屈に苦しんだ人民は、あたかも籠の鳥が、籠から飛び出したように、一時極端から極端に走って、ほとんど報徳の旧業を忘却してしまいました。
その後、やや回復しましたけれども、この本場としての割合にはふるいませぬ。
もっとも他地方からの来られた方は、いずれも当地人民がすこぶる質朴純良なることを賞しますが、多少の感化はなお存するかもしれませぬ。
古老の輩は、常に申します。
『報徳の仕法は、今の若い者には決してできぬ』と。
それは彼らは、当年の刻苦を忘れず、自分が辛苦したる目をもって、今の人間を見るがゆえに、とても今日ではマネができぬと思うのです。
畢竟、形式に拘泥するからの誤謬で、古老はただ仕法のつらかったことと、恩を受けたる事のみを記憶していて、その精神がわからぬのです。
けだしかの時、施行者は無論その理を知ってやったけれども、人民はただ官命によれるのみ、形を知れるのみで、事業の精神を理解いたさず、ただ遵行の難きをのみ感じているのです。

翁が幼時の事は、世間に伝えるところ、あるいは誤謬もあろうとは思います。
すこぶる考慮取捨を要します。
先祖の系譜もわかりませぬ。

肖像も一定せず、区々になっていて、かつすこぶる相違があって、甲と乙とは全く別人のようです。
実に心外の至りですが、しかしいずれも多少づつの根拠を持っているので、一概に甲を取り乙を捨てるという訳にも参りません。ここに
木像がありますが、これが最も正しいので、母(尊行氏未亡人)も善く似ていると申し、中村の士、荒至重も、志賀直道も、皆その正真なることを証言しましたが、ただし今少しコメカミのところが高かったと、母は申します。
この木像は、青木村領主の家臣、荒川泰輔という者の作で、その由来がこのようです。
初め剣持広吉が、翁の木像を得んものと、幸い右の荒川は青木村の支配をして、日夕翁に親炙した縁故があり、かつ最も彫刻の名人で、優に専門家を凌ぐの腕前があったので、同人を見立てて頼みました。
そこでその頃ではすこぶる得難いキャラの材を、江戸で求めて渡しましたので、荒川はそれから間がな隙がな刀を振るっては陰に翁の顔に見比べ、意匠惨憺3年の功を積んで、成工しました。
それは翁が65,6歳の頃でありましたが、それを剣持が、一日今市の宅に持って参って、祖母(翁の夫人)と父母とに見せました。
祖母と父母とは「剣持それは何であるか」と、まさに手にとって見ようとするとき、あたかも祖父が外から帰って来ましたので、剣持あわてて袂にしまいこみ、そこそこに帰ってしまいました。
それから剣持は別に2体を模造させましたが、翁の没後に至り、最前の荒川作の原像を持参したので、父は相当の礼を致して、これを受領し、家にまつることにいたしました。
外の2体は、一は相馬家に渡り、一は剣持が秘蔵したのですが、それを何かの都合で他家へ預けていた時、その家が火災にかかって焼失しました。
(著者いわく、これは火災の時はたしかに取り出したが、行方不明になったと栢山では言っている)
それから、今市に神社が建ったので、相馬家のを神社に贈り、自宅のを相馬家に納めて、現にまつってあります。

遺書は現存してあります。
中には欠本もあります。
たとえば曽比村仕法のごときは、目録にはたくさんあれども、本文はありません。
翁が幕府に仕えてから、在江戸中、芝田町で有名な豪商船津伝兵衛の別宅を借りて、調査をしていましたが、その頃火災にあって、参考書類多数浜辺に持ち出しながら消失したと申しますが、その余は皆存してあります。
さようです、この保存には、誠に心配いたしました。
桜町から東郷、今市と、転々し、今市では文庫があって無難であったけれども、戊辰の変に戦地となったので、相馬家が特使をもって尊行を招聘されまして、尊行もその恵に感じて、ついに相馬に参りました。
これその時にはいまだ相馬は奥羽連盟に加わらず、無事であったので、乱を避けてまいったのですが、この運搬には実に苦心しました。
今市から相馬まで約80里、戦陣の間で、一回に運ぶことができないので、数回にわかって馬で送りました。
さて城内に借宅をしていますと、仙台の圧迫で、相馬も独り立つことができず、ついに同盟に加入したので、ここに官軍の征伐を受けて、またも戦地となりました。
ゆえににわかに民家の土蔵数カ所を借りて、納めておきますと、幸いに無事に治って、後、石神村に宅を賜ったので、そこに運びましたが、それから北海道行きの時、その最も難業なるを察し、ことに移民を連れて行くことであれば、責任はさらに重い。
祖父さえ家をつぶして桜町へ行ったことなれば、しかして不肖の予、事成らずんば帰るべけんやと覚悟し、家宅を売り払いましたので、書類を一時、相馬家事務所の倉庫に託したのです。

巻数は約1万からありますが、ただ1通あるのみでは、万一の欠失も心配されるし、ひろく縦覧に供することもできず、遺憾なりというので、鈴木の篤志で、謄写の業を起し、明治39年1月から筆工約15,6人を入れて、約3年にして成就しました。
この書類を通読したる者は、一人もありません。
見ても容易に分かりません。
ただ一人愛知県の
古橋源六郎氏、両3日滞在しましたが、日光ひな形を見て感激し、始めて道理が分かったと喜びました。
富田は10年苦学して、治国済民の術を求めて得ず、ついに桜町に行き、実地を学んで、始めて了解したのですが、今この書類を調べると、各地仕法の有様が詳細に分かります。

翁の性格は、喜ぶときはいたって優しく、怒るときはおそるべく、仰ぎ見る者がなかったと、老母が申します。
道楽は何もありません。
事業が楽しみであったのでしょう。
酒は晩酌だけで用いました。
晩餐は門弟等も皆いっしょで、この際種々談話をしたのです。
酒は一切献酬を禁じました。

北海道開拓のことは、安政元年二年の頃、函館奉行堀織部正の申し立てによって、幕府の命令を受けましたが、老病と称して辞退いたしました。
しからば誰か門人中、しかるべきものを名代として差し遣わすべきようにと、押しての命令でしたが、翁は門人多しといえども、手放してやるべき者なしと認めたとみえて、その人物は無いといって謝絶しました。

報徳書類は従来刊行のもの、いずれも門生の述作のみにて、各自に私意を加え、一つも純粋に、翁の意をそのままに伝えたるものはない。
かくてはあるいは後世を誤らんかと思います。
ゆえに自分は翁の書類につきて、一つの経典を編成せんとの大願を持っておりますが、まだ運びません。
あるいは世の有力者がこれをなさんことを望みますけれども、まだその人を得ません。





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最終更新日  2007年09月18日 20時06分15秒



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