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2009年04月25日
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カテゴリ:尊徳先生の世界
報徳日めくりカレンダー(報徳学園謹製)より

25日 

かたよらず
 かたよらず
  これを中という


「天保七年の直談」

「自他、上下、老若、親子、夫婦等にあらゆる対立の間に、たえず中正公共の広場を開くことをめざして、二宮尊徳はこれを『中』と名づけている。」

二宮翁夜話 巻の4
【54】翁曰く、
聖人中を尊ぶ、
而して其の中と云ふものは、物毎にして異なり、
或(あるひ)は其の物の中に中あるあり、物指(ものさし)の類(るひ)是なり、
或(あるひ)は片寄(かたよ)りて中あるあり、権衡(はかり)の垂針(おもり)の平(たひら)是なり、
熱からず冷(ひやや)かならざるは温湯(をんたう)の中、
甘からず辛からざるは味の中、
損なく徳なきは取り遣(や)りの中、
盗人は盗むを誉め、世人は盗むを咎(とが)むる如きは、共に中にあらず、盗まず盗まれざるを中と云ふべし。此の理明白なり、
而して忠孝は、他と我と相対して、而して生ずる道なり、
親(おや)なければ孝を為さんと欲するとも為すべからず、
君なければ忠をなさんと欲するとも、為す事能はず、
故に片よらざれば、至孝至忠とは言ひ難し、
君の方に片より極りて至忠なり、
親の方に偏倚(へんい)極(きはま)りて至孝なり、片よるは尽すを云ふなり、
大舜の瞽ソウ(こそう)に於ける、楠公の南朝に於ける、実に偏倚(へんい)の極(きはみ)なり、至れり尽せりと云ふべし、
此の如くなれば、鳥黐(もち)にて塵(ちり)を取るが如く、
天下の父母たる者君たる者に合せて合はざる事なし、
忠孝の道は爰(ここ)に至つて中庸なり、
若し忠孝をして、中分中位にせば、何ぞ忠と云はん、何ぞ孝と云はん、
君と親との為には、百石は百石、五十石は五十石、尽さゞれば至れりと云ふべからず、
若し百石は五十石にして、中なりと云ふが如きは、過ちの甚しきものなり、
何となれば、君臣にて一円なるが故なり、親子にて一円なるが故なり、
夫れ君と云ふ時は必ず臣あり、親と云ふ時は必ず子あり、
子なければ親と云ふべからず、君なければ臣と云ふべからず、
故に君も半(なかば)なり、臣も半(なかば)なり、親も半(なかば)なり、子も半(なかば)なり、
故に偏倚(へんい)の極(きよく)を以て、是を至れりと云ふ、左図(さづ)を見て悟るべし。



【54】尊徳先生はおっしゃった。
聖人は中を尊ぶ、
そしてその中というものは、物ごとに異なる。
あるいはその物の中に中があるものがある、ものさしの類がこれである。
あるいはは片寄って中があるものがある、棒ばかりの錘(おもり)の平衡になるのがこれである。
熱くなく冷たくもないのが温湯の中であり、
甘くも辛くもないのが味の中、
損もなく得もないのがやりとりの中、
泥棒は盗むのをほめ、世の中の人は盗むのを咎めるようなものは、共に中ではない。盗まず盗まれざるを中というべきである。
この理は明白である。
そして忠孝は、他と我と相対して、そして生ずる道である。
親がなければ孝をなそうと欲してもなすことができない。
君がなければ忠をなそうと欲しても、なす事ができない。
だから片よらなければ、至孝至忠とは言いことは難しい。
君の方に片より極って至忠である。
親の方に偏より極って至孝である。
片よるというのは尽すことをいう。
大舜が父である瞽ソウ(こそう)につかえ、楠正成公が南朝につくしたのは、実に偏倚(へんい)の極である。
至れり尽せりというべきだ、
このようになれば、鳥モチで塵を取るように、天下の父母たる者は君である者に合せて合さない事はない。
忠孝の道はここに至って中庸である。
もし忠孝を、中分中位とするならば、どうして忠といおう、どうして孝といおう、君と親とのためには、百石は百石、五十石は五十石、尽さなければ至れりとはいえない。
もし百石は五十石にして、中であるというようなものは、過ちの甚しいものである。
なぜかといえば、君臣で一円であるためである、
親子で一円であるためである。
君という時は必ず臣がある。
親という時は必ず子がある。
子がなければ親ということはできない。
君がなければ臣ということはできない。
だから君も半分であり、臣も半分である。
親も半分であり、子も半分である。
だから偏って極まることをもって、これを至れりというのだ。
左の図を見て悟るがよい。



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最終更新日  2009年05月24日 15時41分26秒
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