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2011年04月14日
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カテゴリ:鈴木藤三郎

「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 208ページ

 

一方には、台湾の橋子頭工場を、ペスト、マラリアの風土病に悩まされ、土匪の襲来に苦しんで建設していながら、他方では、この砂糖消費税の創設にあって、この時、藤三郎は腹背に強敵を受けたような絶対絶命の窮地に陥ったのであった。この間の事情は、「鈴木藤三郎君の砂糖課税談」(「東洋経済新報」第187号)によって、今でも知ることができるのである。

藤三郎は、この翌々年の明治36年3月の第8回総選挙に、井上馨から伊藤博文に紹介されて、彼が総裁をしている政友会に入り、郷里の静岡県から選出されて衆議院議員となった。これは、井上のような少数の人々を除いては、当時の官民の為政者が、いかにも新興の産業に対して無理解であることを、この砂糖消費税問題で痛感したので、この際、自分の手で、これを擁護するの必要を考えたからにほかならなかった。

※「台湾製糖株式会社史」130-133頁

    六 工場試運転

機械の据付を完了したのは明治34年11月30日であるが、これに先立ち、同月23日から27日まで5日間一応試運転を施行し、甘蔗の成熟を待って、更に12月11日から6日間、24日から31日まで8日間の2回にわたり実地試験を行って一切の準備を完了した。然るにその間12月17日、またもや土匪の襲撃を受け、現場にあった一同は事務所に立ちこもって勇ましく防戦し、幸い事なきを得たが、再度の襲来に不安は一層深刻化するに至ったので、遂に現地から、東京事務取扱所に打電して、上京中の児玉総督に軍隊派遣方を懇願せしめたところ、総督は直ちに快諾せられ、翌三十五年一月十五日には橋仔頭守備分遣隊から一小隊、約七十名が派遣されて、当社が工場構内に提供した新築兵舎に常時駐屯することとなった。更にまた銃三十挺の貸下げを願い出で、社員中から選んだ30名を以て壮丁団を組織し、駐在将校の訓練を受けたので、合計約百名の警戒防禦員を保持することとなった。この駐屯兵が引上げたのは、工場運転後1か年を経た明治36年春のことである。

更に恐るべきは風土病であった。工場建設の実際にたずさわっていた齋藤定雋氏の述懐によれば、毎年5月末から9月までの間には一人として罹病しない者はないくらいで、いよいよ製糖を始めてからも常にこのために悩まされ、事業遂行上大きな障害となった。ある時のごときは社員職工の罹病により、機械運転の継続が不能に陥ろうとしたので、応急処置を取るのやむなきに至ったことさえあった。これについて武智現社長は左のごとき懐旧談をもらしている。

「当時衛生状態は、実に不良であった。台湾南部には、ペストなども流行し、熱病は至るところにその勢いをたくましくし、橋子頭において、社員職工等は続々マラリヤにおかされ、勤務に支障を来たせる事ひんぴんとあって、発熱の間歇的なるを利用し互いにその合間を打ち合せて交代執務しているのを渡台せる時実見したが、これはいまだに深刻に予の頭に残っている事柄である。ある時技師職工(内地人)ども病気に冒され、機械の運転を中止せねばならぬ故、内地より至急職工を派遣せよとの急電に接した事があった。当時親類会社であった日本精製糖会社(大日本製糖株式会社の前身)小名木川工場より数名の職工を借り受けて、渡台させ、ともかく製造を休止せずに済んだ事実もあった。職工が渡台の時、水盃をして出発したとの話は、おの時代の事であった。」

以上のごとく、土匪疫癘の重囲中にあって、幾多の危険障碍に遭遇しながらも、全社員、職工等はよくその仕事を続け、いよいよ明治35年1月15日、第1回製糖を開始した。これこそ台湾における、いな我が国における新式製糖工場による甘蔗製糖の嚆矢(こうし)である。

また、四囲の物情騒然たるものがあったので、当社は工場、社宅その他の建物に保険をつけようと東奔西走したが、当時内外の各火災保険会社ともこれを回避し、英国のごときは一度締結した契約を、本国で承知しないからとて、解約を求めて来たことさえあった。当社の事業がいかに危険視されていたかはこれを以ても想像するに難くないが、われわれは今往時を顧みて、関係者一同の勇猛果敢、堅実にして誠意に充てる奮闘を、驚愕と賞嘆とを以て追懐せざるを得ない。

 

     第三節 製糖開始より台湾糖業政策確立まで(133-137頁)

明治33年12月10日、当社が創設されて以来、ここに一年有余の苦心を重ねて、同35年1月15日、いよいよ本格的製糖作業に着手し、5月25日を以て最初の製糖を終了した。その実績は、植付面積1,426甲、総甘蔗収穫高42,827,927斤、甲当り甘蔗収穫高22,999斤、産糖高18,502担。歩留4.32パーセント、甲当り産糖高13担であった。この成績は今日のそれには到底比すべくもない貧しいものであるが、これこそ当社にとってのみならず、我が国甘蔗製糖業史の劈頭(へきとう)に大書せらるべき記念記録である。

この製糖作業は、事、創始に属し、すべてに無経験であったため、3月下旬に至るまでは、時々機械の運転を休止せねばならぬ場合もあったが、4月上旬からは万端整備して何等の故障なきを得た。

右のごとく製糖作業も当社は故障が多かった上、原料甘蔗の粗悪、運輸設備の不完全等のため、砂糖甘蔗の粗悪、運輸設備の不完全等のため、砂糖出来高は当初の予定に達せず、かつ品質も極めて劣等のものであった。しかも品質優良なジャワ原料糖は百斤に付き、わずかに20銭4厘の輸入税を負担するに止まり、廉価で国内に輸入されていたので、せっかく製造した製品は品質、値段いずれの点においても精糖原料糖としては売れぬため、どうしても直接消費に仕向けるより外なかった。然るに黄双目糖は当時にあっては、いまだ全然直接消費に使われていなかったので、車糖を目標として製造することになったが、その車糖とて、一釜毎に色相、結晶ともに異なるものができるという状態であった。しかしてその製品記号としては当社の頭文字Tと、品質の高下を現はすアルファベットとを組合せてTATBTC等の等級に分ち、各等級は更にTBATBBTBCといふが如くして等差を示すマークを付した結果、終には28種の多きに達したのである。

このような砂糖の販売が極めて困難なのは当然であった。加うるに外国糖の低落と、明治34年10月、始めて実施された砂糖消費税法(税率左に掲ぐ)とに依って少なからぬ打撃をこうむっていた際であったから、その販売には一層困難を免れられなかった。

(明治34年10月1日施行砂糖消費税率 略)

この第一回製糖作業による製品は、三井物産合名会社台湾支店と特約して委託販売の方法をとり、支那、内地及び台湾島内に売却したが、明治35年9月10日には、同社と内地一手販売の起原となり、今日における極めて、堅実な販売網の端緒が開かれたのであった。

かくて明治35年1月から6月までの砂糖引取数量は、一種糖5,920担、二種糖2,792担、三種糖1,047担、合計9,759担にてその内二種糖として査定されたものは、TBATBBTBCにて、三種糖として査定されたものはTATBであった。

以上の如く、第一回の製糖成績は不十分なものではあったが、甘蔗糖業に初めて手を染め、又一面台湾における糖業政策、糖業奨励機関ともに、いまだその組織成らざるに先き立ちて、不測の困難障碍と闘いつつ、かち得た成績としては、またやむを得ざるものとして自ら慰めるものである。

当時、資本金百万円を超える事業会社は、内地においても大会社の部に属していた。いわんや台湾においては、かかる資本を擁するものは、いまだ類例を見なかったであるから、当社経営の成否は、ただに新企業たる新式糖業の将来、ひいては国家経済の上に大なる影響を及ぼすのみならず、新領土経営上の試金石ともなり、台湾統治の上にも密接な関係を持つものとして重要視せられてゐたのである。従って、児玉総督初め官辺においても、その経営に対してはすくなからず後援、斡旋せられた訳で、当社の負える使命はまことに重かつ大であった。

かかる使命と期待とは幸いにして着々その実を挙げ、台湾新式糖業の先駆会社としての目的を十分達することができた。当時、三井物産合名会社台北支店長として、当社創立下準備のため現地調査にたずさわった藤原銀次郎氏は

「その頃台湾へ来ていた内地人はほとんど皆ご用商人で、三井物産のごときも、阿片や総督府へ納めるのが主な商売であった。そういうふうで、内地人はまだ仕事らしい仕事をやっていなかった。それではいけない。資本家が資本を持って来て本当の仕事をしなければ台湾は開発されないのであるが、その本当の仕事の先駆をした者は台湾製糖会社である。爾来幾多の製糖会社が設立され、あるいはまた他の種々の事業が起こって、台湾は今日の繁栄を見るに至った。」

と述懐していられるが、これは台湾産業発展史上における当社の地位を端的に表現せるものというべきである。






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最終更新日  2011年04月14日 02時46分54秒



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