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2015年07月12日
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『ウィリアム・ペン伝』現代語表記・概要 新渡戸稲造
第1章 1661―2年オクスフォード大学在学中フレンド派に改宗。イギリス国教違反者として放校。フランス旅行後、リンコンス・インで法律の修得。1664年トマス・ローの説教を聴く集りで逮捕入牢。

 ウィリアム・ペンは名家の生れで、父のウィリアム・ペンもイギリス海軍の艦長であり、31歳で海軍副総督に任ぜられた。
 ウィリアム・ペンは1644年8月14日ロンドンに生まれた。その頃、父の別邸はエセックスのワンステッドにあって、ペンは近くのチグエル校に入った。父はその後クロムウェルが提督の功績を賞して与えたアイルランドのコルクに近い領地に移った。この頃クウェーカー、トーマス・ローがコルクに来て、その話に感動した記録が残っている。
「まだ彼が幼少で、父と共にコルクに住んでいた頃、トーマス・ローがイングランドより来て『クウェーカー』が来たと噂が流れ、父はその人に聴いてその人を判断しようと、トーマス・ローを自宅に招いた。ペンはトーマスの説教が深く聴衆を動かすのを見て、黒人の従僕は声をあげて泣き、また父の顔にも涙が流れているのを見て驚いた。」
 ペンは15歳の時、オクスフォード大学に入って3年間在学した。王政復古の後、政府はピューリタン及び共和政府で重用された者を退け、国教に賛成する者を挙用し、学生もまた二派に分かれていた。
 この大学の学生で、「フレンド」協会の会員トーマス・ローがオクスフォードに来て、集会を開き、ペンは友人と集会に参加し、ローの力のある説教を聴いて感動した。その後、彼らは大学の公礼拝に出席せず、私的な会を開くなどして退学を申し付けられた。
 父はペンの退学を恥辱であると怒り、ペンを折檻し打ちこらしたが、ペンの気持ちは変わらず、フランスに送ることに決心した。ペンはカルヴァン派のモーゼ・アミロート氏より教えを受け、またフランス語に通暁した。
 ペンが外国にあること2年、1664年に父が提督としてオランダを討つべき命令を受けたことから帰国した。ペンは父の勧めどおり、リンコルン法学院に入った。ペンの父あての手紙には、深くその父を敬愛していたことを示している。
「私はお父さんが今逢いたまい、また後で逢われる風雨と数多い困難を免れて、無事に帰宅されることを祈ります。神がお父さんを戦場に招いたのですから、砲煙の中も必ずお守りくださると固く信じています。また父が大切であることを知るだけの智慧がなかった時は、その恩を感じなかったように、今はかえって日々お父さんの安否を深く懸念しています。」
 ペンはリンコルン法学院に入って一年余り学んだが、1665年激しい流行病がロンドンを襲ったため、やむを得ず去った。人々が死ぬ恐ろしい光景は深くペンの心を動かした。
 父はペンが厳粛な人物となり、信仰に熱心な人々とだけ交際しはじめたことから、ペンと友人との間を隔てようと彼をアイルランドに送った。ペンは同国総督オルモンド公爵の邸宅に住み、カリクフェルグスの守兵一揆の際に従軍して戦功があり、キンセールの城塞の総督となるよう内命を受け、父に相談したが同意しなかった。
「常に意を用いてキリスト信者となり、かつジェントルマンとして恥じないよう誠実を守る事が大切である。キンセールの城塞に関する総督の内命についてはお前の青年の欲望のためにその判断を誤らないことを願う。総督は私が一時不在することは忍んでも、お前の不在は忍ばれないであろう。これは総督が私に親しく話したことである。」
 父はアイルランドのコルク郡の広大な領地の数か所の管理をペンに任せた。ペンは父の命令を受けて喜んで勤め見事に業務を行った。
 ある日ペンはコルク市に行き、買物をしようとある店に入ったところ、その店を守る婦人はフレンド(友会徒)の一人で幼い頃、見覚えのある人であった。驚いて、父の家でトーマス・ローが開いた会合について語り「私は今でもその時のことを忘れることができない。あの人の説教を聴くためには遠くても厭わない」と言うと、婦人は答えた。「遠くに行くに及びません。その人は今コルクにいて、明日会を開きます」と。ペンは翌日会に参加すると、ローは「世に勝つ信仰ありまた世に勝たるる信仰あり」という題で説教を始め、ペンはわが身が世を愛して、天父の愛を感じることが切実でないことを後悔し、泣いた。この事があってから数年後、ある篤実の人々にその履歴を語って言った。
「主が初めて私に現われたのは12歳の頃でその時から15歳までしばしば顧みたもうた。・・・・・・私は天下に初代の精神と初代の教会に似たものを見なかったため、世の栄は私をとらえ、私もまたこれに身をささげようとし、万物の復興を望む私の望みは絶えはてんばかりになることがあった。この時、主は世の人々がクエーカーと称する教徒の一人、トーマス・ローを用いて永遠の理を聞かせたもうた。」
 ペンはローの説教を聴いて、また説教の終わった後、彼に面談してフレンドの会に列した。1667年の秋、ペンはその会に列席したため、集会規則に触れ、禁固刑を受けた。ペンがクエーカーとなった風評はすぐに父の耳に入り、ペンは呼び戻された。ペンは父の前でも帽子を脱がず、談話の中にThee(汝を),Thou(汝は)という言葉を用いたので、父はその理由を聞いた。父は子と争ったが、子の意見を変えさせようという企ては思いとどまり、父と陛下などの前では帽子を脱げば改宗は干渉しないと告げた。ペンはその父を愛し、敬っていたが、神に対する義務は更に重く、心の平和と宗教上の成長は自分に忠実かどうかによると感じて父の求めに従うことはできないと告げた。父は怒って、再びペンを追い出した。





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最終更新日  2015年07月12日 15時49分01秒
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