全て
| 報徳記&二宮翁夜話
| 二宮尊徳先生故地&観音巡礼
| イマジン
| ネイチャー
| マザー・テレサとマハトマ・ガンジーの世界
| 宮澤賢治の世界
| 五日市剛・今野華都子さんの世界
| 和歌・俳句&道歌選
| パワーか、フォースか
| 木谷ポルソッタ倶楽部ほか
| 尊徳先生の世界
| 鈴木藤三郎
| 井口丑二
| クロムウェル カーライル著&天路歴程
| 広井勇&八田與一
| イギリス史、ニューイングランド史
| 遠州の報徳運動
| 日本社会の病巣
| 世界人類に真正の文明の実現せんことを
| 三國隆志先生の世界
| 満州棄民・シベリア抑留
| 技師鳥居信平著述集
| 資料で読む 技師鳥居信平著述集
| 徳島県技師鳥居信平
| ドラッカー
| 結跏趺坐
| 鎌倉殿の13人
| ウクライナ
| 徳川家康
カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話
「金次郎(天保一四年実名を尊徳に改める)が幕府の御普請役格に召し抱えられるのが天保一三年(一八四一)です。当初、利根川分水路掘割普請計画を求められ、一二月二〇日大生郷村の見分を命ぜられますが、仕法の実施までに至りません。弘化元年(一八四四)四月五日、日光神領荒地見分を命ぜられますが、標準モデルとしての仕法雛形を作成することを要望し希望通り命ぜられます。日光仕法神領雛形を提出したのは弘化三年(一八四六)六月二八日です。金次郎は山内総左衛門手付でしたが、嘉永元年(一八四八)七月山内が東郷陣屋から真岡陣屋に移り、東郷陣屋を一手に引き受けて以来、ようやく幕府領仕法が実施されるます。実に七年余り仕法は停滞し、その間に谷田部藩と断絶、小田原藩報徳仕法畳置、川副家は仕法を引き取り村民に尊徳との接触を禁じるなど、困難な状況が続きます。大藤氏は『官僚の論理に立つ山内』と『日本国全体の興国安民を実現しようと志向する金次郎』の対立と説いています」(『二宮尊徳二二一頁』)勘定奉行の牧野成綱と松平近直は東郷陣屋支配所限りで仕法を実施させることにし、嘉永元年四月十八日に、山内から伺い出ていた書類に対し、「御仕法取計い苦しからず。知行所のどこでも開発してよい。」と指令があり、小田原藩から受け取るべき五千百両余も受け取って幕府領に用いてもよいとされました。住居は近々指示するとのことでしたが、七月十一日に山内とその属僚は真岡に移転し、東郷陣屋は金次郎とその門弟で使用できるようになり、九月十七日には金次郎の家族も東郷陣屋に移転します。天保十三年(一八四二)以来四年ぶりに家族水入らずで過ごせるようになったのです。金次郎は嘉永元年八月から棹ケ島村(茨城県筑西市)の復興仕法に着手します。嘉永二年(一八四九)十一月山内が勘定所に提出した棹ケ島村の報告では「申(嘉永元年)二月、私儀村柄の様子見分したところ、地味は可だが、田畑共不作、荒地多く、往還の道は田畑より低く、水路は埋まり水行が悪く、百姓共は雨天の節は床下浸水しこのため病人も絶えず、元気衰え血色よろしからず困窮に陥っている状況」(全集第二一巻六六七頁)でしたが、「金次郎の村柄立直しの仕法を試し、その結果を見分したところ、田畑道橋井堀筋共、際立って見違えるほど立直り」「百姓共気力引き立ち、農業に励んでいる。」(同六七三頁)ついては今までの資金は金次郎の給与などから出しているので、これからの仕法資金も含め四百両下されたい、また天保十一年からの十か年の平均年貢収納高から一割引いた額を今後十年間の年貢に定め、それを超える分は仕法資金としたいと山内は勘定所に申し出ています。山内も勘定所の上層部が仕法に理解を示す以上は、その意向に従い、支援するようになります。『報徳記』では、山内の俗物ぶりが強調されていますが、桜町仕法の際に当初仕法の妨害者だった豊田正作が、大久保忠真侯の意向を知って改心し協力者となるように、山内も当初属僚の抵抗にあって金次郎の仕法実施に消極的になりますが、勘定所上層部の金次郎の仕法採用の機運が高まると俄然強力な協力者となります。
大藤修氏は「『報徳記』は金次郎を「善」、対立者を「悪」という構図で描いている」(『二宮尊徳』一四〇頁)が、官僚機構の一員としての論理と独自の理念と論理に立った金次郎の復興仕法の論理の対立とされている。「山内は東郷陣屋の責任者として、自己の管轄下の村々を復興して年貢を増収する任務を負っていた。」その任務を果たすために金次郎を自己の手下としたが、「金次郎は幕府領、大名・旗本領にかかわらず報徳仕法を実施し、日本国全体の興国安民を実現しようと志向していた。官僚の論理に立つ山内と、官僚機構の一員でありながら自己の論理で動く金次郎が対立することになるのは、必然の成り行きである。」(同書二二一頁) こうした官僚の論理による幕府領の仕法停滞を打開したのが、相馬藩家老池田図書と富田の連携による勘定所上層部や幕閣要職者への働き掛けであった。それは相馬仕法の実現に直結していた。信州佐久郡志賀村の名主神津半右衛門の一家仕法に係る「仕法書」には、「二宮金次郎門人 吉良八郎・富田久助・池田図書」とある。(全集第二一巻一一三四頁)相馬藩の家老が門人として家臣と共に名を列ねている。神津半右衛門らの「願書」には「伝手を以て」尊徳に歎願した(同一一一四頁)とあるが、ここで伝手とは神津の親戚であった小田又蔵である。(尊徳の森一四六頁)小田は天保十三年八月、勘定組頭格・御金奉行兼務となり、天保十四年まで尊徳と交流したが、老中水野忠邦の失脚と共に九月にはお役御免となる。小田は弘化元年から報徳仕法事蹟の漢文化作業に従事する。その成果が「第二集」に収録した「報徳本教第四青木村興復事蹟」である。これは「年表」「本教」「規制」「語類」「物数」という五編からなり、「本教」は、第一里居、第二小田原、第三物井、第四青木村という遠大な構想であったが、結局「第四青木村」のみ完成した。おそらく神津家「仕法書」に池田図書が名を連ねたのは小田に対する配慮であろうが、池田と富田が連携して勘定所や幕府要職に働き続けていたことの傍証となろう。また神津家の仕法書には、尊徳の考えが整理されて掲載されている。尊徳の考えを文書として整理して遺そうとする意図があるように思われる。「神津半右衛門家株再興子孫永続仕法附中」の「先生の常の教え」を第四集の裏表紙に掲載した。 棹ケ島村仕法は幕府領仕法の効果を問う「試し」であったため、尊徳は幕府内私領のモデルとして全力を注ぎ、その様子は相馬市史の棹ケ島村視察記録(本集二一八頁)にも見られる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年06月28日 03時56分14秒
|