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カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話
案
『第四集』の表紙は、第一集で使用した日光市今市の報徳役所跡にある二宮尊徳像とします。 表紙の色は、本日持参したこのハンカチの緑色とします。これは編者の叔父○○の遺品で叔母から頂いたものです。 東京の大学に通っている頃、千葉にいた叔父の家に転がり込んで世話になったことがあります。叔父は大学生の私に「○ちゃん、国際的に活躍したら」と言ったものです。語学が苦手だったので、そのアドバイスに従わなかったわけですが、その言葉は耳の底に残り、「○○叔父のお蔭で報徳の教えが世界に広まりました、感謝します」と毎朝「魔法の言葉」を唱えています。 二〇一六年六月三十日台湾のT先生から、第三集のお礼のメールがありました。森町の○○が台湾に行った際、高雄市のT先生に郵送してくれたものです。メールに「○○様の編集した本が届きました。ありがとうございました。仙台講演録を読みました、『二宮尊徳の会』の名付すばらしいですね。たらいの水の原理とお椀の水の原理は確かにわかりやすく教えたものです。」とありました。台湾までは本会の刊行した本は広まりました。(笑)『第四集』の表紙にふさわしい色と考えます。 『報徳記』の幕府領仕法と二宮尊徳全集第二一集の幕府領仕法2の棹ケ嶋仕法分を中心に輪読する。 「金次郎(天保一四年実名を尊徳に改める)が幕府の御普請役格に召し抱えられるのが天保一三年(一八四一)です。当初、利根川分水路掘割普請計画を求められ、一二月二〇日大生郷村の見分を命ぜられますが、仕法の実施までに至りません。弘化元年(一八四四)四月五日、日光神領荒地見分を命ぜられますが、標準モデルとしての仕法雛形を作成することを要望し希望通り命ぜられます。日光仕法神領雛形を提出したのは弘化三年(一八四六)六月二八日です。金次郎は山内総左衛門手付でしたが、嘉永元年(一八四八)七月山内が東郷陣屋から真岡陣屋に移り、東郷陣屋を一手に引き受けて以来、ようやく幕府領仕法が実施されるます。実に七年余り仕法は停滞し、その間に谷田部藩と断絶、小田原藩報徳仕法畳置、川副家は仕法を引き取り村民に尊徳との接触を禁じるなど、困難な状況が続きます。大藤氏は『官僚の論理に立つ山内』と『日本国全体の興国安民を実現しようと志向する金次郎』の対立と説いています」(『二宮尊徳』二二一頁)勘定奉行の牧野成綱と松平近直は東郷陣屋支配所限りで仕法を実施させることにし、嘉永元年四月十八日に、山内から伺い出ていた書類に対し、「御仕法取計い苦しからず。知行所のどこでも開発してよい。」と指令があり、小田原藩から受け取るべき五千百両余も受け取って幕府領に用いてもよいとされました。住居は近々指示するとのことでしたが、七月十一日に山内とその属僚は真岡に移転し、東郷陣屋は金次郎とその門弟で使用できるようになり、九月十七日には金次郎の家族も東郷陣屋に移転します。天保十三年(一八四二)以来四年ぶりに家族水入らずで過ごせるようになったのです。金次郎は嘉永元年八月から棹ケ島村(茨城県筑西市)の復興仕法に着手します。嘉永二年(一八四九)十一月山内が勘定所に提出した棹ケ島村の報告では「申(嘉永元年)二月、私儀村柄の様子見分したところ、地味は可だが、田畑共不作、荒地多く、往還の道は田畑より低く、水路は埋まり水行が悪く、百姓共は雨天の節は床下浸水しこのため病人も絶えず、元気衰え血色よろしからず困窮に陥っている状況」(全集第二一巻六六七頁)でしたが、「金次郎の村柄立直しの仕法を試し、その結果を見分したところ、田畑道橋井堀筋共、際立って見違えるほど立直り」「百姓共気力引き立ち、農業に励んでいる。」(同六七三頁)ついては今までの資金は金次郎の給与などから出しているので、これからの仕法資金も含め四百両下されたい、また天保十一年からの十か年の平均年貢収納高から一割引いた額を今後十年間の年貢に定め、それを超える分は仕法資金としたいと山内は勘定所に申し出ています。山内も勘定所の上層部が仕法に理解を示す以上は、その意向に従い、支援するようになります。『報徳記』では、山内の俗物ぶりが強調されていますが、桜町仕法の際に当初仕法の妨害者だった豊田正作が、大久保忠真侯の意向を知って改心し協力者となるように、山内も当初属僚の抵抗にあって金次郎の仕法実施に消極的になりますが、勘定所上層部の金次郎の仕法採用の機運が高まると俄然強力な協力者となります。 大藤修氏は「『報徳記』は金次郎を「善」、対立者を「悪」という構図で描いている」(『二宮尊徳』一四〇頁)が、官僚機構の一員としての論理と独自の理念と論理に立った金次郎の復興仕法の論理の対立とされている。「山内は東郷陣屋の責任者として、自己の管轄下の村々を復興して年貢を増収する任務を負っていた。」その任務を果たすために金次郎を自己の手下としたが、「金次郎は幕府領、大名・旗本領にかかわらず報徳仕法を実施し、日本国全体の興国安民を実現しようと志向していた。官僚の論理に立つ山内と、官僚機構の一員でありながら自己の論理で動く金次郎が対立することになるのは、必然の成り行きである。」(同書二二一頁)こうした官僚の論理による幕府領の仕法停滞を打開したのが、相馬藩家老池田図書と富田の連携による勘定所上層部や幕閣要職者への働き掛けでした。それは相馬仕法の実現に直結していた。信州佐久郡志賀村の名主神津半右衛門の一家仕法に係る「仕法書」には、「二宮金次郎門人 吉良八郎・富田久助・池田図書」とあり(全集第二一巻一一三四頁)相馬藩家老池田が門人として家臣と共に名を列ねています。神津半右衛門らの「願書」には「伝手を以て」尊徳に歎願した(同一一一四頁)とあり、ここで伝手とは神津家の親戚の小田又蔵です。(尊徳の森一四六頁)小田は天保十三年八月、勘定組頭格・御金奉行兼務となり、天保十四年まで尊徳と交流したが、老中水野忠邦の失脚と共に九月にはお役御免となります。小田は弘化元年から報徳仕法事蹟の漢文化作業に従事し、その成果が「第二集」に収録した「報徳本教第四青木村興復事蹟」です。これは「年表」「本教」「規制」「語類」「物数」という五編からなり、「本教」は、第一里居、第二小田原、第三物井、第四青木村という遠大な構想でしたが、「第四青木村」のみ完成しました。おそらく神津家「仕法書」に池田図書が名を連ねたのは小田に対する配慮でしょう。神津家の仕法書には、尊徳の考えが整理されて掲載されています。富田は尊徳の考えを文書として整理して遺そうとする意図があるように思われます。「神津半右衛門家株再興子孫永続仕法附中」の「先生の常の教え」を第四集の裏表紙に掲載しました。「中」では「赤貧といえども天分受くる所の数量を明かにし、入るものを以て分度を定め、貧に安んじて世の奢侈を願わず心力を尽す時は、必ず有余を生ず。その有余を家事活計の用度に入れず、別に引き放ち置き年々繰返して積む時は、初めは些少の物と雖も日を重ね年を経るに及んでは広大無量の数に至る事、何の疑いかあらんや」と言い、「若し富める者祖先の丹誠を顧み節倹を行い、分限を縮め、有余を生じ、仁愛を主とし厚く窮困の者を恵みその艱難を救わば、この上は御国益を報じ、下は陰徳積善の基本となる、然らば天幸人幸共に一家にあつまり、子孫永久富優を保つ」とあり、(裏表紙)「子孫永く繁栄せん事を欲せば、陰徳積善を行うべし」とし、年々増倍する田地の半ばを分限に入れ、半ばは永久に分外にし、貧困者を救助するなど諸人の憂いを除けと教示しています。(全集第二一巻一一四九頁) 神津家仕法の「先生の常の教え」には「貧富過不足は外物にあらずして、一心足るを知ると知らずとにある事をわきまえて自ら足れりとするならば」「幸福余りあって余財年々増倍せん」とあります。家に陰徳があれば、子孫が栄え、陰徳が尽れば家もまた随って滅する、何の疑いかあらん、故に子孫が永く繁栄せん事を欲するならば、陰徳積善を行うべしと、然らば則ち一家再興の期に至り、このたび旧復の為に備え置き、年々増倍する所の田地、その半ばを分限に入れ、その半ばは永久に分外となし、あるい荒地を開き、無尽の米穀を生じ、人民の衣食を足し、あるいは困民を撫育し、老人や寡婦、みなし児を恵み、諸人の憂いを除いて与える行いをなせば第一には国恩を報じ、第二には祖先父母の恩を報じ、第三には陰徳積善を行うことになる。もし他譲のための永年の分度を立てて引き放ち置いて増益する所は、永久に自分の物としないで除き置き、仁恕撫育の用度と定め推し譲る時は、いよいよ恵んでいよいよ尽きず、ますます施してますます豊かとなる。果してこのように行うならば、万世不朽の仁術行われ、一家の衰亡は求めても得ることはできない「先生良法の儀は、己を棄て人を救い、自ら艱苦をなめて、他の窮困を除き、自財を譲り諸人を安んずるを以て要とし、かつ始めに終りを尽し万事永久全きを以て主とす」とあります。(同一一五〇頁) 「たらいの水のたとえ」の押したものが返るという原理と考えあわせると、報徳の教えを学ぶ者は、自らの子孫の幸せのためにも、生活に一定の分度を設け、分度外の収入は引き放ち置いて陰徳積善のために使う私の場合には、『報徳記』全ルビ版などの本を刊行して全国の大学・公共図書館に寄贈することですがようそれぞれが工夫する必要がある。報徳を学ぶ者は、足ることを知ると共に、それぞれが呼吸するように推譲できるよう、「始めに終りを尽し、万事永久全き」自らの生活設計を行い、分度外の財産を推譲することを普段の行いとして実践する必要がある、それは先人の徳に報いることであると共に、たらいの水のたとえにあるように、自分の子孫に戻ってくるのだということを認識し日々実践する必要があるように思います。 今回の読書会をもって第四集の原稿を印刷所に送ります。『報徳記』全八巻全ルビ版・現代語訳が完成します。 二〇〇八年からの会員の永い協力に感謝します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年07月06日 23時40分27秒
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