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2016年11月11日
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風教を正すことは報徳社の最大の目的です。各自は率先して報徳の教えを実践し、自然にこれを他に及ぼそうとすることにあります。ですから本社の教義を盛んに広めるには推譲を旨とし、無利息貸付法を行うには貸し付ける人を選ぶ投票により、社中転々これを貸し付け、道徳・経済相互に発達させることをはかります。創設者の福山瀧助より現在の役員及び社員にいたるまで専ら道義を発揮し、経済を助長することに努力しました。ですから報徳の道の起こるところ、風俗の改良されないところはなく、世の人はこれを名付けて報徳風というようになりました。この実績の一二を挙げれば次のとおりです。
 磐田郡久努村菅ケ谷部落〔袋井市国本〕は、昔は東海道の人馬を乗り継ぐ要路で繁昌し、人々は悪習に流れ、業務を怠り、生活が困窮していました。明治一五年村内一同が報徳に加入し、その教義に基づいて各自が仕事に努め勤倹貯蓄を行ったことから面目を一新しました。初めは怠惰やぜいたくの風習が盛んでしたが、報徳の教訓を受けてからすぐに一変し、ぜいたくの風習は質素に変わり、おのおの推譲の考えを起し、風俗が大いに改まりました。
 周智郡山梨村〔袋井市山梨〕は、森町、二俣町、見付町、袋井町等へ通ずる中央の地で、荷物運搬に便利でした。農工商業が繁栄した土地でしたが、ぜいたくの風習をなし自然と貧窮に陥りました。有志の者が、これを心配して報徳社を組織し、以来ぜいたくを禁じて、勤倹貯蓄を奨励した結果、風俗は非常に改まり、各自業務に勤め励むようになりました。

 磐田郡三川村字山田〔袋井市山田〕、山田社社長金井平六(遠譲社社長)は明治一四年報徳金一七九円余の貸付を受け、淵田より字川田まで長さ五五〇間の用水路を開さく竣成して、なお地蔵前の堤防長さ五〇間を修築し、水害の憂いを免れさせました。また田地改良の基因である用水悪水用の二管が従来木製だったのを報徳金によって石門に改設しました。明治二〇年頃より水田を干田とし、馬を使った耕作を始め二毛作の耕地の増加をはかり、収穫の増進を企画しました。山田地方は山地で干し草、肥料等の運搬に大変不便でしたので、一二〇〇余円の資本を投じて新道を開さくしました。その費用は本社よりの貸与金一五〇円と山田社の資金五三四円余のほかに人夫数百人の寄付によって竣功し、到るところ荷車が通じないところがなくなりました。

周智郡宇刈村春岡〔袋井市春岡〕に水を湛えた地が多く、これを憂え、力をあわせて悪水路の開さくに着手し明治三一年(一八九八)に竣功しました。その費用二千余円を要したといいます。

磐田郡磐田村寺谷〔磐田市寺谷〕では、明治二五年(一八九二)に寺谷新田より以南、匂阪上南端に至る延長千有余間の堤防に強固な改修工事を施して水害の恐れが除かれ、村民は安心しました。

周智郡飯田村〔森町飯田〕は太田川が村内を貫流し、出水の時は通路をふさぎ、わずかに渡し舟で往来ができるだけで大変不便でした。そこで一同協議し、明治一二年四月に字中組に長さ六〇間の橋梁を架設しました。人々は報徳橋と呼びました。その影響で森町にある森川橋の渡り賃が廃止されました。明治二五年字上組に一二〇間の長橋を架設し人々の便利をはかりました。

 磐田郡下阿多古村上野部落〔磐田市上野部〕は、四境すべて山で囲まれ、耕地は狭く、地味は不良で、田畑ともに収穫が少なく紙すきなどの副業によってわずかに食糧を得ていました。明治一六年非常な災害にかかって一層困苦に陥りました。妻は寒さに叫び、子は飢えに泣くという悲しい境遇に沈みました。有志の者が救助の手段を尽しましたが、容易に目的を達することができません。そこで金井利太郎について報徳の教えを受け上野報徳社を組織し、以来各自が勤め励んで家政を復旧し、人心が結合しました。その結果、農事に心を注ぎ、山林の開拓や肥料の共同購入、農具の改良など着々と進歩しました。なお副産物として製茶、養蚕を行うなど、一村の面目が一新しました。そこで同社員一同の協議によって山林に杉苗一万三千本を植付け、毎年社員一人について五日間まで下刈などを行った結果、有用な材木となりました。また同郡阿多古村米沢では、明治二〇年山林の火災にかかって立木の大半が焼失したため、この回復のため一〇町歩に対し杉苗を植え、社員が交互に下刈りなどに従事しています。

 周智郡山梨〔袋井市山梨〕近隣は明治一三年一〇月激しいヒョウが降ったために非常な惨状となりました。人々は生活に困窮し、ほとんど離散の状況となりました。そこで報徳社を結び、本社より多くの借入れを行い、以来社員一同は報徳の趣旨を守り、勤倹貯蓄を行って回復することができました。

 磐田郡三川村字山田〔袋井市山田〕(山田社)は、戸数七〇戸の部落ですが、明治五年八戸を除く外、すべて負債者でその額は千三百両余りに上り、この処分には六〇戸余りが離散せざるをえない悲境に陥っていました。八戸の者が協議し、福山滝助を招き救済の方法を依頼しました。滝助は承知して、明治五年二月山田社を組織して負債償還の方法を講じました。明治一二年には旧債務の弁済を終了し、明治一五年より荒地の開墾や道路・橋梁の改造、山林の開拓など各種の事業を起しました。現在同社は六、七〇〇有余円の資金を有するようになりました。





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最終更新日  2016年11月11日 04時35分02秒



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