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カテゴリ:鈴木藤三郎
観世音菩薩信仰と鈴木藤三郎の死 1.鈴木藤三郎の観世音菩薩信仰 藤三郎は、実生活では二宮尊徳の報徳の教えを基礎としていたが、精神生活上では観世音菩薩を深く信仰していた。毎朝冷水浴をした後で、仏前に向って観音経一巻を読誦することは、どんな朝も欠かしたことはなかった。急用が出来て汽車の時間が迫っているような時でも必ずやった。時間がないので、大急ぎで上げている藤三郎の読経の声を聞きながら家の者は「こんな忙しい時は、一朝くらいやめたってよいものを」と笑ったものだ。しかし藤三郎としては、これが一日の活動の源泉であったのであろう。どんなことがあってもやめなかった。 藤三郎が観音を信仰するようになったのは、家の宗旨が禅宗であったことよりも、二宮尊徳が観世音菩薩を信仰していたことの影響の方が多かったらしい。 「報徳記」に、尊徳がまだ一四歳の金次郎の頃、隣村の飯泉村の観音堂に参拝した時そこへ行脚の僧がやって来て、堂前に坐って読経した。その経を聞くと、金次郎はなぜか歓喜に堪えない気持になった。それでお経が終って坊さんに、「いまのお経は何経ですか」ときいた。「これは観音経です」と坊さんは答えた。金次郎は不審に思って「私は観音経なら今までたびたび聞いていますが、今のように心にしみ通るように分ったことはありません」と尋ねると、坊さんは、「それは普通は呉音で棒読みにするから意味が分らないのであるが、今のは国音で訓読みしたから分ったのでしょう」といった。そこで、金次郎は、懐中をまさぐって銭二百文を取り出して、 「これをお供えいたしますから、今のお経を、もう一度読んでお聞かせください」と頼んで、再び聞いてすっかり観音の信仰を得たということが書いてある。 藤三郎の読んでいたのもやはり訓読の観音経だった。 五郎(三男)お父さん、観音経では、どこが一番ありがたいと思いますか? 藤三郎 それは観世音菩薩が、仏身を以て得度すべき者には、即ち仏身を現じて説法し、童男童女を現じて説法するというように、あらゆる相手の要求に広く現じてこれを済度する無礙自在身を持っておられる所だな 藤三郎の信仰の中心はそこにあった。そして彼の猛烈な発明活動も、もちろん名誉欲や利得欲をも含んでいたであろうが、その奥には、衆生の要求に即応してこれを実現してゆく観世音菩薩の一応現でありたいという念願の発露でもあったのだ。 藤三郎は鈴木鉄工所で、観世音菩薩の銅像を四体(三体説もある)鋳造させた。原型は大熊氏広の作で、丈は一丈余り、眉間の白亳は藤三郎の金のカフスボタンを
鋳つぶして入れた。 現在現存しているのは郷里森町の庵山と台湾 橋仔頭工場の構内に建立した二体だけである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年02月11日 18時54分20秒
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