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カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話
2013年10月13日
2010年度第3回目講義は、東京大学大学院教授で江戸中期から明治までに日本で書かれた漢詩文学が専門のロバート・キャンベル先生を講師にお迎えし、「世界に映る日本文学」というテーマで開催されました。 現代の日本文学を代表する作家である村上春樹であるが、全世界で40ヶ国以上の言語に翻訳されて読まれている。アメリカのポピュラー文化(ロック、パスタ、テレビ、レストラン、カフェなど)が小説に出てくるため、英語で読むと日本が舞台とは思えない。英語に訳すと急に舞台がユニバースになって、どこが舞台だか分からなくなるのが特徴である。 日本の文学が世界の中でどう受け入れられていたか、それを日本はどう進めていたかを歴史的に見ると、浮世絵、版画、挿し絵(絵本)がいわゆるジャポニズムと言われる、古い日本美術の代表である。「日本文学のビジュアル性」とも言えるが、挿し絵も多かったので、絵を見ているだけで内容が大体分かった。これは、マンガのような現在のポップ・カルチャーの原点になっているように思う。また、当時の小説は漢文で書かれており、それに脚色を付けて英語で欧米に紹介された。 今、坂本竜馬がブームだが、現代の人が読んでいるのは読み易い活字になったものだけであり、その他に、まだ読まれていない、あるいは読めないものが膨大にある。(日記、手紙など)。我々はほんの少しの書物からしか学んでいない、世界でも珍しいケースである。英語では、17、18世紀の小説は今でも読めるが、日本語では原本を読むことは難しい。(日本語リテラシー)。 約130年前の日本語表記の転換以降、日本語は歴史から学ぶことが困難になっている。日本発の科学技術は今でも世界で待たれているが、日本の文学が輸出してきた思想、文学、音楽は十分に世界に伝わっているのか、伝えようとしているのか、そこまで巻き戻して考える必要がある。 そして若山牧水の短歌と小説「アメリカひじき・火垂るの墓」の2つの事例を紹介した。 若山牧水の有名な短歌「白鳥は哀しからずや 空の青 海のあをにも染まずただよふ」は、人によって描く情景が異なり、日本語の曖昧さが良く出ている。村上春樹作品も、読む人の国によって舞台が置き換えられる。置き換えても、しっかりしたストーリーが読める作品が日本文学には多い。 「アメリカひじき・火垂るの墓」は、終戦直後の神戸が舞台。災害、人災から立ち直る日本人の心も、日本文学の1つの大切なテーマである。古くは京都の荒廃を描いた鴨長明の「方丈記」に遡り、どう社会を立て直して、絆を結び直すかが描かれている。 最後に、多くの質疑応答の中で、キャンベル先生は、日本語・日本文学はしなやかで柔軟性に富むことを述べられ、予定時間を越えて、受講者には有益な時間を過ごしていただくことができた。 ☆ロバート・キャンベル先生の言われる 「英語では17,18世紀の小説は今でも読めるが、日本語では原本を読むことは難しい」 「日本語表記の転以来、日本語は歴史から学ぶことが困難になってきている」 実はこれこそが、私たちの読書会で痛感してきたところなのである。 私たちは「報徳記」を原文で読むことからはじめたが、まず人によって読む力が異なる。 漢字が読めないのだ。読めてもその漢字の意味を理解できない という事象に直面した。 そこで 原文をルビつきで読み、現代語訳をかぶせ読み(目で原文を耳で現代語訳)として行う方法で、「報徳記」全七巻を読了した。 これが私たちの読書会の原点であり、刊行物の原点である。 本会が発行する刊行物は、原文のリズムや言い回しを大切にしながらも、 現代仮名遣い化や平かな化、文章内で意味を補するなど、原文を声に出して読めるよう心を配った。 必ずしも十分ではないであろうが、キャンベル先生の言われる「英語では17,8世紀の英文は今でも読める」(それはgaiaで掲載中の『天路歴程』を日本語、英文併記を読めばわかる)状況を日本語のレベルでも実現しようという試みの一つでもある。 しかし、この試みは原文至上主義、学術的な世界では理解されにくく、以前ある大学教授に 新渡戸稲造の『帰雁の蘆』を現代語表記したものをある大学教授に見せたところ 「ただ首をかしげたのは、漢字をひらがな化し、ふりがなをほどこし、難解漢字は文中に〔 〕で簡単な意味を付すことを、出版界や読書界において、「現代文表記」と称するでしょうか?」 という批評をいただいたことがある。 その教授にはできるだけ「若い世代が理解しやすいように」との配慮をしようという意欲が感じられないため、有益なアドバイスには感謝しながらも、『帰雁の蘆』は、中断することとした。 そしてその構想は、『ボーイズ・ビー・アンビシャス第3集 新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆』の刊行として結実した。 あるいはこれは研究者の立場と思想・精神の普及者の志向の違いかもしれない。 『報徳記』全巻の全ルビ・現代語訳化 に引き続き、原文が漢文(返り点付きではあるが)で書かれている 「二宮先生語録」の現代仮名遣いによる読み下し文(全ルビ)と現代語訳 もまた「原本を読むことは難し」くなった(それは漢文・四書等の素読の伝統が絶えてしまった)現代及び未来の日本人に、日本語の文化遺産を現代に生かそうという営み(大海の一滴かもしれないが)の一つである。 原文を声に出して読んで漢文のリズムを身体で感じ、その書かれている意味を現代文で理解し、報徳思想を現代・将来においてそれぞれの生活に活かしてほしいという願いである。 報徳思想はその一部でも「ああそうか」と体得するならば一生涯使っても使い尽くせない宝庫である。 安居院庄七、福山滝助もそれを体得したから伝道し、鈴木藤三郎もそれを確信したからこそ近代産業に適用してみせたのである。「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」という資料集はそれを明らかにしたものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年04月22日 06時56分15秒
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