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カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話
「日本の農村が生んだ聖人二宮先生の教訓、すなわち中庸、節倹、適切な農耕方法などの奨励あるいはまた日本人は生活条件を改善するため絶えず働かなければならないという教えなどは、もし日本国民がこれらを実践していたならば、恐らく日本は現在のような窮境に陥らずにすんだであろう。
遠い以前において二宮先生が達成した業績は現代の日本人、特にマッカーサー元帥の指導に導かれ、真の民主主義国家建設を熱望する今日の日本人を鼓舞し奨励しないではおかないのである。」 2008年06月13日 小田原から見た戦後「報徳」の出発点(抄) by宇津木三郎 明治維新以降これまでの報徳運動には、2つの大きく盛り上がる時期があった。 まず第一には日露戦争後、地方改良運動の流れに乗って、それまで一部地域のものであった報徳運動が全国に拡大した明治末期があげられる。 次は昭和恐慌から戦時体制期まで、国民生活の拠り所として報徳が担ぎ出された昭和10年代前後である。 以上2つの時期の報徳は、しかし、官製の色合いの濃いものであった。 ところが戦後まもなく、規模こそはその2つに及ばないが、民主日本の再建を報徳の精神でと唱え、官製ではない、報徳関係者による自発的な運動の興隆した時期があった。・・・ 「もり上がる青年報徳運動」と題する小田原の報徳青年主幹草場弘の記事がある。 昭和21年7月20日の夜、二宮先生の郷里栢山の国民学校に群馬千葉の青年男女42名が地元の桜井青年団と交歓懇談会を催した。 終戦後1年の各青年団の虚脱状態からやっと立ちあがろうとしているもだえ苦しみを腹をわって語り合い、お国自慢の八木節大漁節から流行歌浪曲まで大いに歌い大いに笑いながら午前1時に及んだが、群馬千葉の青年の胸の底には二宮金次郎先生の遺跡を歩いた感激がじーんと沁みこんでいたのである。 草場はなぜ、今「青年報徳運動」が必要なのかを熱っぽく語っている。 日本の青年は今日ことごとく心の底に祖国を興し日本を再建したい念願に燃えている。 ただその方法が分からずその道が見えないためにやむなくじっとしている。 この可燃性の青年にこの祖国復興日本永安の報徳原理方法の火を点じたならば、忽ちにしてめらめらと燃えてやがて天をこがす火の柱となって日本再建のゆくてを照らすであろう。 昭和21年11月から12月まで、大日本報徳社では、「第6回国民新生活報徳研究会」を開催したが、この講習に参加した全国23都道府県の58名は「救国報徳運動」を宣言し、全国各地の報徳関係者に檄(げき)をとばし、その協力を要請している。 これらの報徳運動が全国に展開し始めた昭和21年は、尊徳生誕160年に当たっていた。 小田原報徳二宮神社では、この年9月、「二宮先生生誕160年記念報徳大会」が開催され、その際「報徳連合会」の発会式が挙行されている。 これは、中央報徳会、大日本新興報徳会、大日本報徳社の3者が協力体制を組んで祖国再建に取り組もうとするものであった。 そして、注目すべきことは、この席にGHQ(連合軍総司令部)の新聞部長インボーデン少佐が立ちあっていたことである。 なぜGHQが報徳に関わってくるのか。 当時東京文理科大学教育学教授であった加藤仁平は、昭和21年4月、静岡新聞社が主催するGHQのドーリン大尉と静岡県下の報徳指導者との座談会に招かれ、尊徳の人と業績について説明した。 この座談会記事をインボーデン少佐が読んだことから、報徳とGHQとのつながりができてきた。 少佐は加藤を呼んで懇談した。その時、少佐は報徳についてこう語った。 「民間から燃え上がらせていく、こういうやり方は極めて賢明な方法である。・・・ 二宮尊徳は、エブラハム・リンカーンやトーマス・ジェファーソンのような人物である。」 と評価し、加藤から贈られた報徳関係の小冊子を手にしながら、これを以前試みたアメリカの民主主義についての論文と 「つきまぜて物語を作ったならば、日本人に民主主義を理解させることができるであろう」と語ったという。 同年5月、インボーデン少佐はマッカーサーの指示を受けて、掛川の大日本報徳社を訪ねている。 その4ヵ月後、小田原の報徳二宮神社での「報徳連合会発会式」に出席した少佐はこう祝辞を述べた。 「極端なイデオロギーがときに改宗者を獲得し、真の自由主義者の支持を受けることがあるが、これらの人々は過去の底流から発するすべてのものを『反動』と片づけるような歪められた宣伝やはやり文句で誤って導かれている。・・・ 日本の農村が生んだ聖人二宮先生の教訓、すなわち中庸、節倹、適切な農耕方法などの奨励あるいはまた日本人は生活条件を改善するため絶えず働かなければならないという教えなどは、もし日本国民がこれらを実践していたならば、恐らく日本は現在のような窮境に陥らずにすんだであろう。 遠い以前において二宮先生が達成した業績は現代の日本人、特にマッカーサー元帥の指導に導かれ、真の民主主義国家建設を熱望する今日の日本人を鼓舞し奨励しないではおかないのである。」 (この少佐の考えが後に「『二宮尊徳を語る』ー新生日本は尊徳を必要とするー」という論文に結実するのである) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年06月23日 21時18分40秒
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