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2018年06月26日
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「峠の釜めし」の発案者:田中トモミ「置かれた場所で一所懸命やれば必ず道は開ける」

滝口長太郎「求める気持ちが私を自覚させたのです。」

2008年07月01日 XML
家族ふれあい新聞第1023号より

 置かれた場所で一所懸命やれば必ず道は開ける

「峠の釜めし」の発案者であり、横川の荻野屋さんの副社長でもあった田中トモミさんの『一期一会』という本に「峠の釜めし」の誕生秘話が載っている。
 学校の先生をされていた田中さんがお姉様の嫁ぎ先の荻野屋さんを手伝うことになった。
日本で二番目に古い駅弁屋の荻野屋さんも田中さんが入った昭和26年頃は一日に20~30個の弁当さえ残ってしまうほどだった。
田中さんは、「お客様がどんなお弁当を求めているか、どうしたら喜んでくれるか」を考えながら駅のホームに立ち続けた。
団体の添乗員や役員の人に聞くと異口同音に
「どこへ行っても似たりよったり。何か変った弁当が欲しい」
という答えだった。
『2月の寒い日、駅のホームのゴミを片付けていると隅のところだけ箸がつけられた弁当が捨てられていた。
凍っていたのである。
以来、列車の着く時刻に合わせて温かいご飯を盛り付けて駅へ持込んだ。
100円の弁当を私の手から買い求めてくださった母子が「このお弁当は温かい!」と言って胸に抱いて下さった。
動き出した列車から私に向かって二人が手を振ってくれた。
私も手を振った。自然にホームを走っていた。
走りながら目頭が熱くなった。
列車が見えなくなるまで手を振り、感謝を込めて最敬礼をした』
駅頭での出会いは文字通り「一期一会」。
この方々にお喜び頂ける弁当を造ろう、造りたい、造らねばならないという思いが現実になったのが「峠の釜めし」です。
「置かれた場所で一所懸命やれば必ず道は開ける」が信条の田中さんは横川駅のトイレ掃除もされているという。

☆「打つ手は無限」の素晴らしい詩を残された滝口長太郎さんは、千葉船橋の貧しい海草採りの子として育った。
小学校を出ると、父親の小船で、海草を取っては干してリアカーに積んでは海草問屋に売りに行った。
その日なんとか食べることができるという赤貧の生活であった。
長太郎少年が16歳のときの出来事である。
親友の家に遊びに行った。代々網元で御殿のような家に住んでいた。
その日集まった友だちでにぎあう家でその網元の親父さんは朝から酒を飲んで、取れたての新鮮な刺身に舌鼓を打っていたが、どういう風の吹き回しか長太郎少年にからかい気味に言った。
「よお、そこのター坊よ。
漁師っていうのはな、魚を捕るから漁師なんだぞ。
海草はひろうもんだ。捕るんじゃねえ。
言ってみりゃあ、海のモク拾いのようなもんだ。わっはっは。」
周りの人々も大笑いした。
少年は瞬間頭に血が上った。怒りで恥ずかしさでブルブルと体が震えた。
居たたたれずその家を飛び出した。どこをどう走ったか分からない。
気がつくと、人っ子一人いない広々とした塩田の堤防の上に腰かけていた。
いつまでもいつまでも海を見ていた。次から次から悔し涙があふれてきた。泣けて泣けてしょうがなかった。
「バカヤロー、バッカヤロー」誰ともなく大声であらん限りの声で叫んだ。

この事件がきっかけで、俺は海草採りから足を洗うぞという気持ちがめばえた。
「海草採りから足を洗いたい」と思い余って父親に打ち明けると
「バカヤロウ、漁師のほかにお前に何ができる。冗談じゃねえ、陸(おか)にあがって勤まる仕事がありゃ苦労しねえ。長男のくせして漁師が嫌なんぞ、この親不孝ものめ!」と怒られた。
果たしてその後、洗濯屋、畳屋の小僧、臨時雇いの検査工、溶接見習い・・・何をやってもしっくりこなかった。
20歳になって、徴兵検査に合格した長太郎は北満州、南方へと転戦した。捕虜生活も体験し、ベトナムで終戦を迎え、昭和21年4月26歳で復員した。
 さてこれから何をやって食っていくか?でももう海草採りはやりたくない。
毎日毎日浜に出てはぼんやりと海を眺める日々が続いた。

ふと気付いた。
(このままではいけない。こんなことなら南方の密林で朽ち果てたほうがましだった。
自分が生涯をかけて悔いることのない仕事を求めよう。こんなふうに座っているだけじゃ駄目だ。まず求めよう、歩くことだ)

そう気付いたとき、胴奮いがきた。その時、漁師と百姓の2人の話が耳に飛び込んできた。
海草と芋の物々交換をしていたのである。
(これだ、これなら仕事になる!)
海草を乾燥させたのを直接農家に売りに行くという長太郎さん原点の仕事がひらめいたのである。にわかに視界が開け、夢がいっきにふくらんできた。
しかし先立つのは金だ。まず父親に無心した。

「何?おめえが商売だと?冗談じゃねえ?世の中そんあに甘えもんじゃねえ。
ビタ一文貸せねえ。」

(ああ万事休すか)と思う寸前、ふと妙案がひらめいた。
恵んで惜しくない少額のお金、それなら貸してくれるかもしれない。
そうだ、数を集めればいいんだ、さっそく翌日から知り合いのところを一人ひとり歩いてまわり、頭を下げて一ヶ月かけて必要な資金を集めたのであった。

後に滝口長太郎氏は回想する。

「求める気持ちが私を自覚させたのです。」と。





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最終更新日  2018年06月26日 22時15分43秒
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