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2018年12月29日
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江川太郎左衛門といえば、幕末、韮山に反射炉を設けたり開明派の幕臣として知られている。

大磯も幕府の直轄地の一つとして韮山代官の支配化にあった関係で、二宮尊徳とも接点があり、尊徳先生が江川代官に教示した話が知られている。

二宮翁夜話
【5】尊徳先生がおっしゃった。
江川県令が私に問うたことがあった。
あなたは桜町を治めること数年で、年来の悪習が一洗し、人民は精励におもむいて、田野が開け、民集まると聞いています。
感服の至りです。
私(江川)は支配所のために、心を労して久しいのですが、少しもその効果が得られないのです。
あなたはどのような術を施されているのですか。
私は答えて言った。
あなたには領主としての御威光がありますから、事を為すことはなはだやさしいことでしょう。
私はもとから無能・無術ですが、ご威光でも道理を説いても、行われないところの、ナスをならせ、大根を太らせる事業を、確かに心得ておりますから、この理を法として、ただ勤めて怠らないだけです。
草野は一変すれば米となります、
米が一変すれば飯となります、
この飯には、無心の鶏や犬でも、走まり集りきたって、尾を振れといえば尾を振り、回れといえば回り、ほえよといえばほえる、鶏や犬が無心であるのにこうである。
私はただこの理を推して、下に及ぼし至誠を尽しているだけです。
別に術があるわけではありませんと答えた。
このことから私が年来実地に執り行った事を談話する事6,7日に及んだ。
江川氏は、よくあきることなく聴かれていた。
さしずめ支配所のために尽されたことであろう。


「江戸時代人づくり風土記22静岡」の318~324ページに「江川英龍(ひでたつ)-質素勤勉に徹した名代官」として載っているので大略紹介してみよう。

 江川英龍の先祖は、鎌倉時代から韮山(静岡県の伊豆半島の韮山(にらやま))に住んでいた。江戸時代に入ると、代々代官を世襲し、江川太郎左衛門を襲名した。韮山代官は、幕府の直轄領(天領)を治める役人の一人で、その支配地は駿河・伊豆・甲斐・武蔵・相模に及んだ。
 英龍の父英毅(ひでたけ)は、22歳より64歳まで、42年間代官職をつとめ、名代官と称された。英毅は、新田開発・植林・炭水漁業(鮎漁)を奨励、指導するなど、殖産興業に尽した。また困窮した村や宿場・伊豆七島などを救済するため、韮山代官貸付金という独自の低利な融資を行った。この金融の資本は、支配下の豪農層を説得して集めたもので、明治の初めまで行われた。英毅は、学者としても有名で、杉田玄白・伊能忠敬・間宮林蔵らと交際し、蘭学も学んだ。
 英龍は、この父の元で学問するとともに、文政7年(1824)3月21日代官見習いとなり、天保6年(1835)の代官就任までの11ヵ年あまり、代官としての施政を学んだ。

 江川英龍は、享和元年(1801)5月13日、伊豆国田方郡の韮山屋敷で、英毅・久子(ひさこ)夫妻のもとに生れた。少年時代の名は邦次郎、号を坦庵と言った。17歳のとき、江戸に出て、神道無念流岡田十松吉利(よしのり)のもとで剣術の修行をし、2年後には免許皆伝を許された。この期間に後年の相談役斎藤弥九郎と知り合った。
 英龍は、画を谷文晁・大国士豊、書を市河米庵、詩を大窪詩仏、経書を頼杏坪(きょうへい:山陽の叔父)に学び、20代で一流の文化人だった。長身で文武両道にひいでた英龍は、勢いにまかせて相手を論破することなどが目立った。
母久子は、深くそのことを案じて、天保元年臨終に際して、「忍」の一字を書き与えた。
英龍は、遺訓「忍」を大書して座右の銘とし、同時に小さく書いた一枚を折って、守り札のように肌身離さず所持していた。
後年、建議が通らないとき、懐の「忍」の字を押さえ、「まだ時機がこないのだ」と、次の機会を待つように心がけたという。

江川英龍(ひでたつ)-質素勤勉に徹した名代官 その2

 江川英龍が代官に就任した天保6年は、天保の飢饉の真っ最中で、各地に打壊しや一揆が起きた。
天保7年甲斐に郡内騒動(甲斐の都留地方一帯に起こった農民騒動)が発生すると、韮山代官支配の相模国津久井県や武蔵国に影響が出始めた。
英龍は、暴徒が支配地に乱入するのを阻止するため八王子に出兵し、武蔵・相模の支配地を巡見した。
 英龍は、代官見習いの時代、豪農層の指導や手代(代官所の役人)・下役の綱紀粛正をさらに徹底しなければ、大飢饉が起きた場合、秩序が崩れると考え、代官就任後すぐに実施した。
 英龍は、手代・下役のわいろや不正を厳禁すると同時に、支配地の豪農や米穀商を説得し、米の保有量を申告させ、飢饉の時には放出を命じた。
このため、民心は安定し、郡内騒動のyときも、隣接する韮山代官領からは騒動は起きなかった。
 英龍は、役人の不正を禁じたばかりでなく、自ら日常生活を厳しく制限し、それを家の者にも徹底させた。
まず、食事は一汁一菜、衣服は木綿のみで、冬も袷一枚で過ごし、火鉢を用いなかった。
倹約できるものは徹底的に切り詰め、部下の役人や農民にも示した。
 したがって、検見(けみ)で農村を回るとき、自分の食事が地元のありあわせの品や一汁一菜でなかったときは、村役人を厳しく叱り、村の財政帳簿を検査して、ぜいたくや無駄をやめさせ、貯蓄するように指導した。
この態度に農民は感激し、豪農層も倹約して、後年英龍の関係した品川台場や反射炉などの国家的事業には進んで献金した。

江川英龍は、
1 役人の不正を禁じた
2 自ら日常生活を厳しく制限し、それを家の者にも徹底させた。まず、食事は一汁一菜、衣服は木綿のみで、冬も袷一枚で過ごし、火鉢を用いなかった。
3 検見(けみ)で農村を回るとき、自分の食事が地元のありあわせの品や一汁一菜でなかったときは、村役人を厳しく叱り、村の財政帳簿を検査して、ぜいたくや無駄をやめさせ、貯蓄するように指導した。
4 この態度に農民は感激し、豪農層も倹約して、事業に進んで献金した。

これは尊徳先生のやりかたと同じである。夜話に江川英龍が報徳仕法の実施方法について教えをこいにきたとあり、尊徳先生は「私が年来実地に執り行った事を談話する事6,7日に及んだ。江川氏は、よくあきることなく聴かれていた。さしずめ支配所のために尽されたことであろう。」とあり、その教えのとおりにしたのであろう。
それは相馬藩の高野文吾が報徳仕法を桜町で学んで帰藩するとき、与えた教訓とも一致する。

江川英龍(ひでたつ)-質素勤勉に徹した名代官 その3

 江川英龍が、都留郡支配を命ぜられたことが目前にせまった天保8年(1837)2月19日、大坂に大塩平八郎の乱が起きた。大塩が乱の直前江戸の老中に送った密書は、三島近くにおいて盗難にあい、捜索にあたった江川英龍の手に入った。大塩が富士山麓に深いかかわりをもっていることを知っていた江川英龍は、大塩が老中と結び、乱が韮山代官支配地や都留郡に及ぶと考えて実情を視察する。
 英龍は、斎藤弥九郎とともに刀剣行商人に変装し、天保8年(1837)5月御殿場から富士山をまわり、富士の宮方面から富士川をくだって韮山に帰った。
この視察の結果、大塩事件の影響はなく、伊豆の農民も甲斐の農民も同じで、治める役人の姿勢に問題があることがわかった。
 翌天保9年7月、都留郡2万1千石あまりが韮山代官支配地に編入された。
英龍は、谷村(やむら)陣屋に派遣する手代たちに、誠意をもって、また厳正に農民に対処するように命じた。英龍の施政は、たちまち甲斐の農民の利解するところとなった。蘭学者で英の親友だった八王子同心松本斗機蔵(ときぞう)は、手紙で農民の反応をこう伝えた。

○韮山代官に支配される以前の谷村陣屋の元締め手代は、1ヵ年に2千両もの役得を得ていた。
しかし韮山から来た手代根本又市は、処置も立派で、冬に子供に足袋を使わせないほど質素な生活をしており、その公平無私な態度は人々を感服させている。
○郡内地方では、これまでの代官巡見の折、一夜分の宿泊費用に15両ほど、昼食には5,6両ほどを要したが、英龍の巡見は、従来の手代の一泊分にも満たない。
○郡内地方では、初午の節句に、「世直し江川大明神」と書いた紙のぼりを各所の神社に立て、その善政をたたえている。

斎藤弥九郎といえば、水戸藩の加藤木賞三を二宮尊徳先生のもとに門下生として送りこんだ人でもある。おそらくは、江川英龍を介して親しくなったのであろうか?
歴史の裏に隠れた人間関係があり、それが結構大きな影響を与えているということがあるかもしれない。


江川英龍(ひでたつ)-質素勤勉に徹した名代官 その4

 江川英龍は、外国船の日本来航にどう対処するか考え続けた人である。
幕府の命により目付鳥居耀蔵と江戸湾を測量した。このとき、蘭学者の渡辺崋山・高野長英の援助を受けたことから、有名な蛮社の獄が起きた。
 まもなく清国でアヘン戦争が勃発すると、欧米列強の次の目標が日本であるというのが知識人たちの常識となった。長崎の砲術家高島秋帆は、日本を守るために西洋式軍隊を持たなければならないと幕府に建議した。英龍はこれを支持して、鳥居耀蔵ら幕府の保守派と激しく対立した。論争の結果、天保12年(1841)5月9日、武蔵国徳丸原(現板橋区高島平)において、秋帆が演習を披露し、喝采をあびた。
 天保の改革を進めた老中水野忠邦は、英龍を鉄砲方とし、西洋式軍隊の育成を命じた。
しかし天保の改革の挫折により、英龍の企画も未完成に終った。失意の英龍は韮山で全国から集まってくる門弟を教育して時節を待った。
 この間、外国船は次々と日本に接近した。嘉永2年(1849)のイギリス軍艦マリナー号は、浦賀入港以来日本側の要求を無視していた。ところが英龍が交渉にあたると、たちまち退去した。最初交渉に出た役人が粗末な服で相手にされなかったので、英龍は越後屋(現三越デパート)から最高級の陣羽織と袴を取り寄せ、「人民15万人を支配する高官」と名乗って交渉したという。日ごろの木綿だけの質素な生活ぶりを知る人々は驚いたという。
英龍は幕府に「各大名の城は江戸城を守るためだけにあり、大名も武士も外国船も外国船防御には役立たない。優秀な農民により西洋式軍隊、すなわち農兵隊を組織すべきだ」と主張した。
そのうち嘉永6年6月3月、ペリー軍隊が浦賀に入港した。老中阿倍正弘は英龍を呼び出して、今後の交渉と海岸の防御を一任した。英龍は、土佐藩からジョン万次郎を召しだして配下とし、日米和親条約を締結した。
 さらに反射炉・品川台場の建設やロシア使節プチャーチンのディアナ号(安政元年11月4日大地震の津波で沈没していた)の代船建造、農兵創設、幕府の様式軍の創設なども企画され、すべてが英龍により進められた。しかしあまりの多忙と過労のため、安政2年1月16日、満54歳で死去した。
 英龍の死は、老中阿倍正弘らに大きな衝撃を与え、遺骸はひそかに江戸から韮山に運ばれた。
噂を伝え聞いて多くの農民が沿道に出て涙したと伝えられる。

英龍の死を知った老中阿部正弘は、なくてはならない有能な幕臣を失った嘆きを
「空蝉(うつせみ)は限りこそあれ
 真心にたてし勲は世々に朽(く)ちせじ」
という歌に託して、英龍の霊前に贈ったという。





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最終更新日  2018年12月29日 03時00分48秒
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