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2019年04月30日
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『幣原喜重郎』抜粋
1 父・新治郎という人
 幣原喜重郎は、一八七二年(明治五年)八月十一日、大阪の北河内郡門真村で幣原新治郎の次男として生まれた。喜重郎は大阪中学校、第三高等中学校、東京帝国大学を経て外務省に入ったのは一八九六年(明治二十九年)である。
 喜重郎の兄・坦(たいら)は、国史学専攻の文学博士で広島高等師範学校長、台北帝国大学総長等を歴任した。
 父・新治郎は喜重郎の祖父・幣原九市郎の静ヅと結婚し、養子となった。新治郎はこう言い残している。
「私は幣原家に養子に来たが、もともと何一つ能のない人間であるから、せめて子供だけは立派に育てて、私の代りに、幣原家のためになってもらいたいと考えた。・・・・・・子供たちも段々年ごろになって来たので、立派な教育を授けてやらねばならぬ。それには財産を売り払っても学費に充てねばならぬと決心をした。ところが私の村は文化程度の低い農村であるから、学問なんぞ誰も重んじない。親戚はこぞって反対する。百姓に学問はいらん。大学に出すなんて生意気だ。第一、入婿の分際で、養家の財産を勝手に売り飛ばして減らすとは何事だというわけで、親戚会議を開いての大反対である。しかし私は子女教育のためなら、田地の半分位無くするのは当たりまえだと思っていたので、断乎として親戚のいうことを聞かなかった。」
 兄・坦は父母の思い出をこう語っている。
「私どもの父母は極めて学問好きであったから、私が四五歳ころから論語の手ほどきをしてくれた。そのころ私の村にはまだ小学校が設けておらず、近所は農家の子供ばかりで、行儀もわるく、言葉づかいも下卑ていたので、私の家ではこれらと遊ぶことを嫌って、多くは門内にとどめられていた。
 私は始めて生まれた男の子で、いわゆる世嗣なものだから、当時としては特別待遇をうけ、父母はもとより祖父母も私を一方ならず可愛がってくれて、毎日その隠居所に呼びよせては正信偈(しょうしんげ)をうつさせたり、謡曲を教えたりしてくれた。外出の折は、髪を茶筅髷(ちゃせんまげ)にゆい、袴をはき、小さな刀をさしていた。そして祖父はそんな姿をしている私をつれあるくのを非常に自慢にしていたようだが、弟喜重郎の方は次男である関係上、いささか自由放任の形で、いつも母屋で独りあそんでいたが、すこぶる腕白な上になかなかはしこく、小才があったようだ。
 ある時、私ども兄弟が祖母につれられて、淀川の苫舟(とまぶね)に乗って京都に行ったことがある。・・・・・・私は祖母のそばにすわっておとなしくしていたが、ふと気がつくと喜重郎の姿が見えない。船の中にはどこにもいない。さては河の中へ落っこちたのではないかと大さわぎをしたが、なんぞ知らん、彼はいつの間にか、こっそり船室から抜け出して苫の上にのぼって、すこぶるのんきな顔をして、両岸の景色をながめているというやんちゃぶりであった。」
 幣原家では兄弟が小学校に通うようになってから、隠居所だった所を二人の書斎に提供した。小高い丘に建てられた二階家の二階の窓からは、河内平野を一望でき、生駒山脈や東南には金剛山を遠望でき、東には飯盛山が見えた。
 門真の隣村の中村東一郎という少年が大阪の英語学校に入学したと聞いて、新治郎は「いったい、それはどういう学校であろうか」と、親しく隣村まで人力車で出かけた。ところが村境の小川にかかる橋で車が転覆して額に大けがをした。しかし、彼は流れる血潮を抑えながら中村家を訪ねて来意を告げた。先方は驚きながらも「これからの時代にはどうしても英語が必要です。大阪英語学校は、文部省の直轄学校で、今までに天子様が二回も御臨幸になった模範学校で、関西には類のない名誉ある学校です。」と教えた。新治郎はその話に感動し、自分の子供たちもぜひこれに入れようと決心した。大阪英語学校は明治十三年大阪中学校と改名した。新治郎は長男の坦を大阪中学校に入学させた。喜重郎も明治十六年大阪中学校に入学した。
2 幣原喜重郎の中学校時代
 幣原は晩年に「私の幼少時代」で、大阪中学校時代について次のように語っている。
「私が大阪中学校に入学して、二、三年の後、英語の教師としてアメリカ人一名とイギリス人一名が同校に招かれた。それまでに私どもは日本人の教師から、ようやく初歩英語読本のよみ方を習ったばかりであって、会話などは全く教えられたことがなかった。そこで外国人の教師が教壇に立って、いきなり英語で授業を始めると、これを了解する生徒がなく、ある日アメリカ人の教師が、しまいに生徒によびかけて、何の問題でもいいから、会話をこころみるように促したようであったが、生徒中誰一人も発言する者がなかった。
 そこで私は初歩英語読本の最初にかかげてあった文句を思い出し、突然シー・ゼ・ムーンと大声をはなった。同級生はあっけに取られてみんなクスクスと笑いだした。しかし教師は私の奇異な発音を解されたと見えて、ニコニコしながら教壇を下りてきて私に握手し、何か激励の言葉をのべたように思われ、少なくとも私自身そう解していささか得意であった。」(読売新聞・昭和二十五年十一月二十七日)
 大阪中学校は第三高等学校と名称をかえ、各地から秀才が入ってきた。土佐からは浜口雄幸が入ってきた。常に浜口と幣原はクラスの首席を争っていた。幣原は
「浜口は何でもよく出来た男だが、ただ一つ彼の苦手としたのは体操だった。不器用で、その点がひどく悪く、それが、総平均的に響いてくる。それが奇功を奏して、時々僕が一番になることが出来たのだ。」と述懐している。
 一八八九年(明治二十二年)第三高等学校は大阪から京都に移転した。
 幣原は一八九二年(明治二十五年)九月東京帝国大学の法律科で英法を修めた。三高の同窓生浜口は政治科を選んだ。兄坦は東大文学部国史科三年生だった。
幣原が卒業したのは、一八九五年(明治二十八年)七月である。

3 外交官幣原喜重郎
 幣原が大学生の時、日清戦争が起こり、三国干渉を受けると、外交官になろうと決意する。しかし、卒業間際に重度のかっけにかかり、外交官領事官試験を受験できなかった。そして彼の恩師穂積陳重先生が農商務省に就職あっせんしたのを断りがたく、さしあたり農商務省鉱山局に勤務する。幣原はそこで行政訴訟を受け持ち、適任者として評判だった。しかし一八九〇年(明治二十九年)二月に外交官試験が行われると発表があると、わずか三か月で辞表を提出する。局長は「断じて許さん」と辞表を受け付けない。そこで幣原は農商務大臣秘書官の早川鉄冶に相談に行った。
「君は、ここをやめて何をするのだ。」
「外交官試験を受けたいのです。」
「それはいいじゃないか。」
と辞表を受理した。早川は札幌農学校出身である。
明治二十九年十月六日付で領事官補として任官した。
幣原は仁川(インチョン)に約二年余り勤務した後、ロンドン総領事館に勤務した。ロンドンのチャーリングクロス停車場に着いたのは、明治三十二年八月十九日の夕刻だった。
ちなみに鈴木藤三郎が米欧旅行に出たのが明治二十九年七月でロンドンの公使館で加藤高明公使に面会したのは九月七日である。藤三郎が見たロンドンの姿を数年後幣原も見ていたことになる。当時の公使は加藤高明で、幣原は後に加藤の妻・春路の妹・雅子を妻に迎えることになる。春路は岩崎弥太郎の長女で、雅子は末子であり、岩崎財閥の一員となることになる。
ロンドン時代、幣原は日本で習ってきた英語が現地で通じないというので、個人教師についてやり直した。教師は「これを暗唱しなさい。」と古典の三、四ページを指示する。「役者はみんなやっています。」幣原は汽車の中でも、バスの中でも、散歩中でも、ベッドの上でも、口の中で繰り返した。そして毎晩、教師の前で暗唱すると、発音やアクセントの誤りを正す。さらに別な書物の三、四ページの暗唱を指示されるという具合だった。幣原は晩年になっても、新聞雑誌に名文をみつけると、よく暗記した。また若い頃に暗記した文章を書きとりして慰めた。
「昨夜は、風邪で熱が出たが、暗記している英文を書いて原文と読み合せてみたら、三つしか間違いがなかったから、大した病気ではありません」と言ったりした。
 一九〇〇年(明治三十三年)伊藤博文が第四次伊藤内閣を組織すると、加藤高明を外務大臣に抜擢する。幣原は加藤大臣から十二月四日付で領事に昇進の辞令を受けると同時に、ベルギーのアントワープ領事館長に転勤を命じられた。半年ばかりで日本に帰国を命ぜられ、すぐに釜山(ぷさん)領事館勤務を命じられた。
 ロンドン総領事の荒川己次(みのじ)は幣原をかわいがり、駐英公使だった加藤高明夫妻から春路の妹・雅子の良縁を心がけておいてくれと頼まれていて、荒川が総領事の任を解かれて帰朝した折に、夫人に幣原という青年の事を紹介し勧めた。その時に加藤は「幣原か、あれも外務次官までは間違いなくなれる男だな」と言ったと伝えられる。
一九〇三年(明治三十六年)一月東京で結婚式を挙げた。幣原三十二歳、雅子二十三歳であった。結婚後、新夫妻は釜山におもむいて家庭を営んだ。
明治三十七年二月十日日本はロシアに宣戦布告する。三月に幣原は帰朝を命ぜられ、本省勤務となり、一年半外務省電信課長代理として、戦時外交勤務の処理に従事した。翌年十一月には電信課長になった。電信課は外務省から海外に発信される電報の業務を受け持ち、課長は英文に練達でなければ、任務を果たせなかった。また職責上、大概の会議には出席し、機密を知る立場にあった。幣原は大臣等に信頼され、実に八年もの間、電信課長として職責を勤め、日露戦争の功績により勲四等旭日小綬章を拝受した。
4 幣原喜重郎の語る日露戦争の舞台裏
 幣原は明治四十一年六月に条約改正委員を命じられ、七月には大臣官房取調課長の兼務を命じられ、四十四年七月第二次西園寺内閣が成立すると電信課長兼務で取調局長に任じられた。日露戦争の講話談判の真相を、幣原は晩年次のように書き記している。
日ロ戦争の講話談判がアメリカのポーツマスで開かれ、小村寿太郎全権は一九〇五年(明治三十九年)七月末にニューヨークに到着し、八月十日からポーツマス会議の幕が開かれた。日本側が樺太の割譲と戦費賠償の二件を議題に持ち出すとロシアは拒絶した。小村全権は政府に最後の決心を求め、その電信が八月二十四、五日外務省に到達した。伊藤博文枢密院議長のもと、桂首相、山本海相、寺内陸相、珍田外務次官で会議を行い、幣原は書記役を務めた。その結果、償金要求は撤回するが樺太割譲の要求は日本軍が全島を占領している事実から要求を固執することで一致し、幣原は小村全権あての回訓案を浄書し伊藤公爵邸に持参した。午前九時に宮中で御前会議が開かれ、伊藤、山形、井上、松方等の元老、桂首相、陸海軍大臣、外務省次官が出席した。幣原が待っていると、回訓案廃案となり、償金・割譲共に撤回するという趣旨になっていて、幣原は憤慨しつつも「至急電報を発せよ」との命令に従った。
「然るにその発電後二、三時間を経て意外千万の事態が生じた。それは石井通商局長が駐日英国公使マクドナルドから伝聞したものであるが、それによると当日より一両日前ロシアの首都にあるアメリカ大使マイヤーがロシア皇帝に謁見した機会に、皇帝は日本が戦勝国の権利を前提とする償金・割地の二要求を固執するのを憤り、ロシアはかかる屈辱的条約に応じ得られる立場ではないから最早講和会議に望みを絶ち、論争を戦場において決すべく一大決戦の準備を完了し、リネヴィッチ総司令官に行動開始を命じた。サハリンの割譲問題にしても一八七五年千島樺太交換の日ロ条約締結前には、日本において一旦同島南部を占領していた行掛りもあるから、この際、同島南部のみを返還を求むるに止まるならば必ずしも考慮の余地ない訳ではないけれども、同島全部の割譲を求むるが如きはロシアの到底承認し得られる筋合でないと、辞色を励まして疾呼されたという内密の情報であった。」
 幣原は小村全権あて会談を延期させたらどうかと急報し、外務省職員に各元老重臣を歴訪させ、情報の出所と要旨を伝え、御前会議では割譲について要求撤回に決したが、同島南部だけなら、講和会議決裂のおそれはないと報告し、御前会議の決定を修正することに異議なしを取り付けて、小村全権に打電した。小村は修正前の回訓を執行しようとホテルを出て会場に到着間際に、会見延期の電報を受け、会見を延期し、最後の修正回訓を得て、償金要求の撤回と樺太の南部の割譲要求を行った。ロシア全権もこの妥協案に同意し、九月一日休戦議定書は調印され、九月五日に講和条約は調印が終わった。
 幣原が外交官として大成するにあたってアメリカ人デニソンの指導が大きかった。デニソンはもと領事として横浜にいたが、明治十三年にアメリカ公使のデ・ロングから推薦されて、外務省の顧問となった。幣原が外務省内の電信課長官舎に移り住むと、隣り合ってデニソンの官舎があり、二人はすぐに懇意になり、毎朝散歩に出た。その道すがらデニソンは外交文書を書く心得や歴史的エピソードなど教えた。デニソンは「僕は一ページ書くのに少なくても二、三度は辞書をひく。それだけの注意がなくてはならない。」「つまるところ、英語は正しいかどうかよりも、イギリス人とかアメリカ人の身になって、その考えで書かなければ人に感動を与えることは出来ない。」と幣原に教えた。幣原はナイル川のたとえにひいて日本の進路について語った。ナイル川上流は二つに分かれ、合流して沃地となった。明治時代はこれに類似した奇跡が行われた。欧化主義と国粋保存論の融合によって危機を脱却するを待望すると。
5 デニソンの教え
 幣原は昭和二十一年八月十九日外務研修所で若い外務研修生にデニソンの思い出に事寄せて説いた。
「外務省に昔アメリカ人で顧問をしておりましたデニソンという人がおりました。この人は私がその頃電信課長というものをやっていた時代でが、午前中でも午後でも暇さえあると、私の部屋にやってきてきました。このデニソンは私に次のような話をして聞かせ、私は今でもよく覚えている言葉があります。その話というのは、長年商売をやっていたある老人が、ある日自分の倅を読んでいうには、お前にこの一言をいって聞かせておきたいことがある。よく覚えておきなさい。『自分はいままでに正直なことも不正直なこともやってみたが、結局正直な方が儲かった』と老人が息子にいったということをデニソンが私に話して聞かせたことを覚えております。これは商売人の話ではありませけれども、私は外交問題も、結局この一語に尽くしておると思います。
 私は、電信課長時代でありますが、当時の長官は小村侯爵でして、ちょうどその頃日露戦争の始まる直前で、情勢は危険緊迫しておった頃です。初めはピータースブルグ(ペテルブルグ)で談判していたが、終いには小村大臣が交渉の場所を東京に移し、東京でロシア公使と談判していたのですが、最後の段階になると、回答が何ほど督促しても動かない。そこで小村さんも匙を投げられまして、いよいよ戦争をするより以外道がないというので、陸海空大臣とも話をされ、遂に日本の有力なる艦隊が日本を乗り出すという時機になったのです。ところがもうすでに日本の艦隊が佐世保を出発してしまった後へ、ロシアの大使のところに一通の電報が入ったのです。
 そこで小村大臣は、最後の瞬間、先方は日本の要求を容れるというような事を訓令してきた電報ではなかろうか。万一そうだとすると、こちらの艦隊は既に日本を出てしまっており、今更引込みがつかない。殊にピータースブルグにおいて粟野公使より日ロ交渉の打切り及び国交断絶の通告をロシア政府に発送した後であるから、ロシア公使あて電報を差し止めても差し支えないと、電報を差し止めた。そのことを小村大臣は始終頭に病んでおりまして自分の一生涯でこんな噓をついたことはない。始めてのことで実に気持ちが悪いと良心の呵責を感じていた。ポーツマス談判でロシア側全権ウィッテに日本にいたロシア大使ローゼンに会う。きっとローゼンは例の電報を差し止めた問題を提起するだろう。非常に困った事になったと私に話されて『自分は初めて噓をついたが、こんなことはやるものではない。』といわれました。私は小村さんのような人こそ、真に外交を解する一人であったと思うのです。
 私はその後大使館参事官としてワシントンに赴任することになりました。するとデニソンが、自分も一緒に行きたいというので、それでは一緒に行こうということになり切符も一緒に買ったのですが、急に先生は外務省の公務で引き止められ、一船遅れることになりました。私が出発する前に訪問すると、デニソンは部屋の中をすっかり取り片づけ、書類の整頓をやっていました。私も上着を取って手伝ってあげました。私が机の引出しを片付けていますと分厚い綴込みが出てきたのです。なにげなく開けると、それはデニソンが日ロ談判当時の草稿を書いていたもので、その多くは一つの電文ごとに少なくとも十四、五回、始め書いたものを清書して、それに鉛筆なり朱のインキで書き入れ、それをまた書き直し、更に張紙したり修正している。最初の談判から最後の国交断絶の談判の草稿まで十六通の綴込みがありました。これを私に呉れないかと私はそれを抱えこんだのです。するとデニソンは少し考えて、やがてちょっと見せてくれと、その草稿を取り上げると共に立ち上がって歩きだしたのです。その時ストーブには、彼が部屋の整理をしながら、古い書類を焼くため火が焚いてあったのです。デニソンはそのストーブにいきなりその草稿をくべてしまったのです。私は『焼くくらいなら私に呉れてもいいではないか』というと『いやそれはいけません。日ロ談判の交渉は小村さんが自分でやられたもので、その結果がよくも悪くもそれは小村さんの責任です。あなたが書類を持っていると他人にそれを示して、デニソンがこういう草稿をこしらえていたと話すだろう。私はそういう記録は存して置きたくないから焼いたのだ』とこう申したのです。
 私は先生のこの精神は誠にきれいなものだと思います。この日ロ談判の訓電は、非常に完全な外交文書であって、私がその後イギリスに行ったとき、英国外務省の極東部長が私に向かい『日本には偉い人物がいる。日ロ談判の文書を書いたのは一体誰ですか。よほど偉い人だと私は思っている。外交文書の完全なる模範と思っている。イギリスでは外務省に入った人間にはあれを暗誦するように命令している』とこういうことをその局長は言っておりました。
その外交談判の記録が戦争勃発と同時に世の中に発表されたので、日本の人気はどっと上がったのであります。その結果、世界の日本に対する信望というものが翕然(きゅうぜん)としてあつまってきました。そして日本はこれまで平和に力を尽した。然るにそれをロシアが聞き入れなかったのは、ロシアが暗愚であるか、さもなくば誰か野心家の犠牲になったものであるとして、日本の人気は大変なものでした。つまりデニソンが苦心惨憺して書いた外交文書は、ここに見事効を奏してきたのであります。そのことをデニソンは知っていたのです。しかしそういうことに自分が関与したという証拠を残して置きたくないと思って焼いてしまったのでありましょう。
大抵の人は物事がうまく行くと功を自分で奪って、悪いところだけは責任を人になすりつけるというのが人情であります。しかしデニソンは正反対であって、功を人に譲り、自分は何もしなかったといってそれ以上の記録は存したくないと焼いてしまった。その心情の高潔さは感服の至りだと思うのです。」
6 幣原、アメリカの参事官のころの思い出
 一九一二年(明治四十五年)二月、珍田外務次官は駐米大使となりワシントンに赴任した。当時アメリカでは排日運動が激しく、珍田は外務省に幣原を参事官として転任させ、日米間の外交問題にあてさせるよう熱望した。幣原は九月にワシントンに単身着任し、対米交渉の文案の起草にあたり、日米外交交渉に選任した。当時カリフォルニア州土地所有禁止法をめぐる日米紛争、すなわち日本人に差別的な土地法案が成立しないように連邦政府と協力したが、一九一三年(大正二年)に州議会で成立し、八月から実施されることになった。日本政府は連邦政府の意見に従い、大審院に訴追し、同州土地所有禁止法を条約違反として無効にする措置について検討したが、勝訴する見込みがないことがわかり、幣原は遂に日本政府にこれを思い切るしかないと報告した。
幣原はこの時期の忘れがたい思い出として、駐米イギリス国大使ブライスのことをあげている。
「私(幣原)が米国に在勤していた頃、英国大使はジェームス・ブライスという人であった。彼は政治家、外交家であると共に、オクスフォード大学に史学講座をもつほどの学者だった。
私はある日曜日の朝、散歩の道すがらふとブライスを訪ねて、その書斎に客となった。ちょうどその日はパナマ運河の航行税の問題で、かねてブライスが米国政府に強い抗議を提出していたが一蹴され、米国議会は原案を通過させた翌日であった。したがって新聞トップにはその問題が大きな活字で書き立てられ、私はブライスが多少緊張するか、反対にしょげているかと思ったが、平常とちっとも変らず、平気そうな顔をしているので意外だった。
「とうとうあれは通過しましたね。あなたがあれほど熱心に抗議されたのに・・・」「はい、通過しました。」
「今後はどうなさいますか、やっぱりあの抗議を継続されるのでしょう。」「いや、もう一切抗議はしません。」「しかしあなたは条約違反だという理由で抗議されたのだから、このまま打ち棄てて置く訳にもいかんでしょう。英国の世論もますますやかましくなるでしょうし・・・・・・」「英国はどんな場合でも、米国とは戦争をしないということが国是となっています。この上抗議を続けて行けばどういう事になりますか、それは結局戦争に発展するほかはありますまい。戦争をする腹がなくて、抗議ばかり続けて、何の役に立ちます。それは我々が恥をかくに止まります。だからもう抗議などという交渉は全然やめて、このまま打っちゃいといて置きます。我々は区々たる面目や、一部分の利害に拘泥して、、大局の見地を忘れてはなりません」そしてブライスは話題を転じ「ところで、あなた方の移民問題、カルフォルニアの排日問題の抗議はどうしましたか。」
「私の方では世論もやかましいし、引っ込めるわけにいきません。抗議はどこまでも続けて行きます。」
「いったい日本は米国と戦争する覚悟があるのですか。もしそんな覚悟があるとすると、それはとんでもない事です。僅かこれだけの問題で、米国と戦争して日本の存亡興廃をかけるなんて、馬鹿げきった事ではありませんか。私ならもう思い切りますね。」
「米国の歴史を見ると、外国に対し不正と思われる行為を冒した例が相当あります。しかしその不正は米国人自身の発意でそれを矯正しています。決して外国からの抗議や請求によって矯正しているのではありません。これは米国の歴史が証明しています。この国の著しい特徴です。我々は黙ってその時機の来るのを待っているのが最も賢明な策です。あなたが同じ立場を採られる事を、私は切に忠告します。」
 一九二〇年(大正九年)パナマ運河は開通し、米国は自発的に差別的な通行税を撤廃した。
「国家の長い生命から見れば、五年十年は問題ではない。功を急いで紛争を続けるならば遂に立ち行かなくなる。外交官は今少し長い目で国運の前途を見つめ、大局的見地を忘れないよう心がける必要がある。」ブライスは後にそう幣原に訓えた。
7 幣原在英参事官の頃―グレーの見識―
 幣原は在米参事官一年三か月にして、在英参事官任命された。一九一三年(大正二年)十二月末から僅か六か月で四十二歳だった。当時の大使は井上勝之助で末子夫人は賢婦人として社交界の花形だった。幣原は読書は勿論、ロンドン・タイムズを初め、いろいろな新聞雑誌で、イギリスの政治外交を調査研究し、議会で重要な問題がある時は大抵傍聴した。当時の外務大臣はサー・エドワード・グレイで、幣原もちょくちょく会っていた。グレイ家は旧家で財産家であった。彼が大臣になった時、証券を持っていると世の疑惑を受けないでもないと持っていた証券を一切売り払った。『およそ政治家たり外交家たる者は、すべてかくあらねばならぬ』と言ったという。
また、当時各国は暗号電報を使っていたが、グレーは部下が他国の暗号電文を解読して持ってきても、『ああ秘密暗号の訳文ですか、捨てなさい』と手も触れずに突き返し『こういうものを読んで判断すると却って自分の正しい判断を誤る。卑劣な方法で盗み出した情報等を利用して自分の政策を決めることは断じていけない、』というのがグレーの信念だった。
 幣原は『外交五十年』でグレーをこう語った。
「英国の人がメキシコに持っている油田をベントンという支配人が管理していた。ところがメキシコに利権回収熱が勃発し、暴徒がその工場を襲撃しベントンを殺した事件が起こった。英国は居留民保護のため、軍艦を派遣することを決議した。ところが米国政府から、黙認できぬと抗議がきた。英国は軍艦派遣は中止するが、代りに英国居留民の保護は米国で引き受けてくれと申し込むとそれも拒絶された。その晩、それに関する質問が議会に出た。『外務大臣はメキシコにおいて油田支配人が殺され工場が焼かれた事件を知っていますか』という質問に対し「知っています」とグレーは答えた。『どういう保護の措置を取りますか。』『何の手段も取りません。』とグレーは答えた。幣原が翌日の新聞を見ると、『さすがグレーなればこそ、あの答弁ができる。これが英国の採り得る唯一の方法だ』と称賛している。幣原はさっぱり分らず、知り合いの新聞記者に尋ねた。『昨日のサア・エドガード・グレーの答弁を、どの新聞も筆を揃えて誉めているが、もし僕の国で、外務大臣があんな答弁をしたらその晩の内に殺されてしまうだろう。どうも合点がいかぬ。』というと、その記者はこれに対し『当り前じゃありませんか。こんな事件でアメリカと戦争が出来ますか。』と答えた。『戦争するだけの腹が無いなら、ワイワイ騒げば騒ぐだけ醜態である。却って国威を落とすことになる。だから黙ってしまった方が賢明なのだ、だが、それをやるには非常なる見識と勇気を必要とする。』と説明するのであった。あたかも先年駐米大使ブライスが、パナマの航行税ごとき小問題で、戦争は出来ないといって、黙ってしまったのと符節を合するが如くである。これで私には『外交の要諦』ともいうべきものの一つがほんとに納得できたのである。」
8 オランダ常駐の特命全権大使に任ぜられた頃
 一九一四年(大正三年)幣原は特命全権大使に任ぜられ、オランダに常駐し、ベルギーと大使を兼任することとなった。オランダの首都ハーグには国際司法裁判所がある。幣原が着任した翌日、サラエボで起こった一発の銃声は第一次世界大戦を惹き起こした。日本はドイツに対独通牒するとともに、対支二十一箇条条約を提議した。幣原がこれを非常に憂慮したことを篠原公使のもとに領事官補であった谷正之がこう伝えている。「私は当時ほんの駆け出しで、日本が支那にあのような要求をして何が悪いんだ、当然だとひそかに思っていたくらいだった。ところが幣原公使は本省からの内報に接してから、幾日も幾日も深思黙考していたが、遂に敢然として加藤外相にあて私信を以て二十一箇条条約を支那に強制することの不可なる所以を述べた意見具申を出された。その後果して幣原公使が心配した通り、この問題は日支両国間の癌となり、これが直接の原因となって排日運動になり、遂に日支関係を救うことのできない危局に導いてしまった。後日私は幣原公使の外交的予見が完全に的中したのを見て、幣原さんの一大見識に打たれ衷心より敬服せずにいられなかった。」
「幣原さんは霞が関外交の正統を継ぐ人だが、決して偏頗なことをする人ではなく、殊に人事の取扱いは公明性大、実にフェアなものでした。まじめに勉強している者に対しては、何らの差別なく待遇されるとともに、後進の養成には随分力を入れられた。
 私がオランダ公使館に着任して間もないある日、幣原公使は私に向って『これから君は毎日僕の官邸で、僕と一緒に昼飯を食べるようにしなさい。僕の所は家内が来ている訳じゃないし、僕一人で食事するのも君と二人で食事するのも手数は同じ事だ。君は外交官として、いろいろ見習わなくてはならんことが沢山あるんだから、是非僕と一緒に飯を食うようにしたまえ』と言われた。そして官邸で公使と差し向かいで飯を食う時は、いろいろな事を教えてくれるのみならず、食後はさあ散歩に出ようといわれる。散歩の時には歩きながら種々な事を話して聞かしてくれる。その話題は若い外交官が是非聞いておかなくてはならないことを、ユーモラスな口調で、非常に詳しくまた親切に説いて聞かせる。こういうやりかたは、若い頃、幣原さんがデニソン顧問に教えられたことを思い出して、年若い後輩に繰り返しておられるのであろう。全くのところ、私は過去を振り返って私が曲がりなりにも外交官になり得たというのも、幣原さんの並々ならぬ御仕込みのお陰だと、つくづく感激にたえない。この感想はおそらく幣原さんに仕えた人は、皆そういう記憶と感じを持っているだろうと思う。ほんとに幣原さんという人は、後進外交官の事を心から想っていてくれた人でした。幣原さんは常に国家本位で物を考えていた。外交事務の知識も、自分一人じゃなく、皆を自分と同じレベルに養成することが大事だと。また幣原さんは人の悪口を決して言わない人であった。」





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最終更新日  2019年04月30日 15時57分13秒
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