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カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話
「人の子たる者は、父母を安心させることを第一としなさい。
父母を安心させるには、心を正しくし、身を修めるがよい。 」 「人の神魂について生ずる心を真心という。身体について生ずる心を私心という。勤めて私心の草を取り、米や麦を培養するように、工夫して、仁義礼智の徳性を養い育てなさい。」 物格而后知至。知至而后意誠。意誠而后心正。心正而后身脩。身脩而后家齊。家齊而后國治。國治而后天下平。 物格(いた)って后(のち)知至る。知至って后(のち)意誠なり。意誠にして后(のち)心正し。心正しくして后(のち)身修まる。身修って后(のち)家斉(ととの)う。家斉(ととの)いて后(のち)国治まる。国治まりて后(のち)天下平らかなり。 【二宮先生語録】 巻二158 人の子たる者は、父母を安心させることを第一とするがよい。 父母を安心させようとするからは、心を正しくし、身を修めるがよい。 心が正しく、身が修まっておれば、たとい他国に奉職して帰着する暇がなくても、父母は表彰式があると聞けば喜んで、わが子ではないと思う。 このようになれば孝行ということができる。 ところが反対に心が正しくなく、身が修まらないならば、父母は犯罪者があったと聞けば、わが子も罪を犯したのではないかと心配し、表彰式があると聞いても、どうせわが子ではあるまいと思う。 このようなありさまでは、たびたび帰省しても孝行とはいえないのだ。 二宮翁夜話 巻之三 一三三 翁曰、人の神魂に就(ツキ)て、生ずる心を真心と云、則道心なり、身体に就(ツイ)て生ずるを私心と云、則人心なり、人心は譬(タトヘ)ば、田畑に生ずる莠草の如し、勤(ツトメ)て耘(クサギ)り去るべし、然せざれば、作物を害するが如く、道心を荒(アラ)す物なり、勤て私心の草を耘(クサギ)り、米麦を培養(バイヤウ)するが如く、工夫を用ひ、仁義礼智の徳性(トクセイ)を養(ヤシナ)ひ育(ソダ)つ可し、是身を修(オサ)め家を斉(トヽノ)ふるの勤なり (現代語訳) 133 尊徳先生は言われた。 「人の神魂について、生ずる心を真心という。すなわち道心である。 身体について生ずる心を私心という。すなわち人心である。 人心はたとえば、田畑に生ずる草のようなものだ。 勤めて草を取り去らなければならない。 そうしないと作物を害するように、道心を荒す物である。 勤めて私心の草を取り去り、米や麦を培養するように、工夫を用いて、仁義礼智の徳性を養い育てるべきである。 これが、身を修め家を斉える勤めである。 【二宮先生御説徳聞書略】 78 教学と実行とがあいまって始めて修身斉家という事柄が成就できる。 だから、昔、教学に従った先生や生徒たちは、実行によって教え、学んだらそれを実行した。 たとえば朝夕こうして水を汲めと手をとって教えたら、それを学んで水を汲んだ。 だから水桶はいつもいっぱいであった。 あるいはまた毎朝こうして明徳を明らかにせよと模範を示して教えれば、それを学んで明徳を明らかにした。 だから一身一家が治まった。 今はそうではない。 口で教えればそれを憶え、憶えればすぐまた口で人に教える。 たとえば、ただ水を汲むがよいというだけだ。 水桶がいっぱいになるわけではない。 あるいはただ掃除をするがよいと言うだけだ。 庭にちりがなくなるはずはない。 あるいはただ明徳を明らかにするがよいというだけだ。 一身一家が治まる道理はない。 このようなありさまでは、聖人の経典、賢人の解説も何の役にも立たなくなる嘆かわしい限りではないか。 「報徳記を読む第3集」収録 今野華都子先生仙台講演録より 何を判断基準にするか。 それは、損か得かじゃなくて、良い心、良心、これをもとにした判断をしてくれることだよ。 (「良心」と板書) 私は一から百までそばについて教えることはできない。ここにいる時は目についた事は教えられる。でも私がいなかった時とか、そういうときは、何を判断基準にするかと思ったら、 これは自分が損か得かではなくて、 これをしたら先生は喜ぶだろうか、悲しむだろうか。 それが分からなければ自分が嬉しがるだろうか、悲しがるだろうか。 それでも分からなければ、これをやることはお父さんお母さんが見て、喜ぶことだろうか、悲しむことだろうか。 これを判断基準にして! それでやったことなら、わたしは何にも言わないから。ということを、わたしはその娘(こ)に毎日毎日、事あるごとに話していきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年06月15日 00時12分20秒
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