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2019年10月21日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
米欧留学の新渡戸稲造 と 『帰雁の葦』

1 アメリカ到着の新渡戸稲造

新渡戸稲造が初めて、アメリカのサンフランシスコに向かった一八八四年(明治一七年)九月一日は、稲造の二十三歳の誕生日であった。養父の叔父太田時敏に見送られて、アメリカの汽船「サン・パブロ号」に乗船、横浜港を出航した。十五日間の航海で、サンフランシスコに到着したのは九月一五日の深夜である。航海中の「サンパブロ」にスコットランド人の老人がいて、毎朝甲板で全裸で水を浴びたり、端然と読書する姿に感銘を受けた。この老人が上陸の前日、新渡戸を呼んで「いよいよ明日はアメリカだ。西洋の習慣にも悪い事がたくさんある。君は国益になる事にのみ着眼して善い事ばかり学んできなさい」と助言する(1)。『帰雁の葦』は、この着眼点から次世代を担う学生に助言したものともいえる。

例えばアメリカ西海岸のサンフランシスコから東海岸に大陸横断鉄道で移動するが、当時二一歳の新渡戸の宗教・哲学の話を列車に同乗した人々が熱心に耳を傾ける姿に「アメリカの中流以下の宗教心」に感銘を受けたり、また、列車が停車中、新渡戸を中国人とみなして「ジョンジョン」と蔑称するアメリカ人が、新渡戸が大学で経済学を勉強するのだと聞いて態度を改めるところに「高等教育はエライと尊ぶ念がある。個人に教育があれば見下すことをしない」とアメリカ人の人間の造作が重く、まじめにドッシリできていると着眼している(2)。アメリカ到着後、大勢の日本人がホテルにやってきては、アメリカの欠点を知らせてくれたが、「そんなこと覚えたとて帰朝の上、何にもなるまい」と船中の老人の注意が記憶に浮かんだという(3)。これが『帰雁の葦』に流れる特徴であり、アメリカや諸外国の短所を指摘する場合も、日本における短所の予防法にしてほしいという教育的な配慮がこめられている。

宮部金吾への手紙には、「先月十五日サンフランシスコに到着し、そこに一週間滞在した」とある。風光明媚なオークランドや、バークレーのカルフォルニア大学、金門公園を見学した。オークランドから大陸横断鉄道に乗り、果てしなく続く平原、モルモン部落、シェラネヴァダ、ロッキー山脈、ミズーリ川などを経て、一週間の後、三〇日の早朝、ペンシルバニア州のミードビルに到着した(4)。

新渡戸稲造は、札幌で洗礼を受けた宣教師ハリスの妻フローラの出身地ペンシルバニア州のミードビルにあるアレゲニー大学を留学先と考えていた。これは新渡戸が渡米を思い立った頃、フローラに相談したところ、ミードビルの大学の学校長を紹介されていたためである(5)。稲造はミードビル到着の日のうちにアレゲニー大学入学の許可を得て。翌日から大学の講義に出席し、ドイツ語、哲学史、演説法を受講する(5)。フィラデルフィアからきた青年(大工をしていて学費が整えば大学に来た)と自由貿易か保護税かについて論議し、西洋の大家の名を推し付けても「われわれアメリカ人はこうだ」と所信確然として動かない見識に感嘆した(6)のはこの時である。

メリーランド州ボルチモアのジョンス・ホプキンス大学に一年前から留学している佐藤昌介(BBAp.18参照)から「田舎学校を辞して速やかに『ジョンス・ホプキンス』大学に来るべし」と再三誘いの手紙が来て、更に二週間後ミードビルをたつ。佐藤昌介によると「〔アレゲニー〕大学は、ミセス・ハリスの出身せる古き学校であるが、とても東部のハーバートやエール又はジョンス・ホプキンスなどと比べて程度の低きものであるから、余は直に書を飛ばして、ボリチモアに来り共に勉強することを進めた」と回顧している(7)。

鳥取大学和泉庫四郎教授は、「アメリカ留学時代の新渡戸稲造について」で、それまで新渡戸がこの大学で農政学と農業経済学を学んだとするのは誤りである、アメリカで農業経済学の講義が始まるのは二十年後の一九〇五年からだ。新渡戸が在学中履修した科目は、歴史・政治学ゼミナール、政治史、国際法、ゲルマン制度論、教会史、ルネッサンス論、歴史批判論、上級経済学、経済学説史、貨幣・金融・銀行・商業論、租税・行政論、弁論、ドイツ語であると「学報」(Johns Hopkins University Circulars)により論証された。

佐藤は入学前に新渡戸の学資を心配し、アダムズ教授の書記役のアルバイトも世話した。この大学には新聞部があって、部員は閲読して面白い問題があれば、印をつけて保存した。新渡戸はこれで雑誌新聞の読み方、要点を抽出する力を養ったとする (8) 。

ボルチモアに来た当初は養父の公債証書の財源も尽きようとする時で、佐藤と同宿し、食事は近所の安下宿屋で、授業料はアダムズ教授の手伝料で支弁する苦学を続けた。「健康を害し、赤貧洗うがごとき」生活が続く。佐藤は「帰朝後急に何事も措いて着手せるは、新渡戸君の学資の問題だった。幾ら倹約しても新渡戸君の学資はクリスマス迄続かない」(9)と、帰国後北海道長官岩村通俊に働きかけて、新渡戸と広井を札幌農学助教授に任命するとともに、政府派遣留学生としてドイツ留学をはからい、新渡戸の経済的苦境を救うのである。


新渡戸稲造のフレンド派入信とメリー・P・エルキントンとの出会い
新渡戸稲造のボルチモアの留学生活で、彼の人生に大きな影響をもたらしたのは、クエーカーとの出会いであった。彼はここでクエーカー信徒となり、生涯の伴侶に出会う。新渡戸がアメリカで見たキリスト教は、彼が札幌農学校で入信したものと異なり、宗教の機関が立派で、奢りと装飾が眼につき、新約聖書に載せてある宗教とは別物のように感じた(1)。
ある日、アメリカ人の友人と学校から帰る途中、学校のような建物から十七世紀の服装の老婆が四、五人出て来た。聞くと「クエーカー派の人だ」という。新渡戸は次の日曜日この会堂へ行くと、そこで見たのは、説教する演壇もない、讃美歌もない、三百人ばかりの信徒がただ端然と黙って座り、聖霊に感じた人があれば述べ、各自直接に神霊に交わることをもって礼拝としていた。「すこぶる僕の気に入った」と新渡戸は記した(2)。この時、一人の老人が、会堂の片隅にいて、説話したが、熱誠があふれるあまり、うまく口に出していえないようであった。しかしその片言二句すべて金科玉条のようであって、「ああ、これだ、これだ、これは私の心にかなっている」と思った。この老人はイギリス人の法律家ブレース・ウェート氏であって、その後、新渡戸はそれ以来常に出席しては黙って談話をいた。そしてある日、この会堂の様子を宗教雑誌に投書して歓迎されたという(3)。
クエーカーは十七世紀半ば、イギリスにおいてフォックスに始まるプロテスタントの一つで、正式にはフレンド・ソサイアティ(フレンド派)という。祈る時、霊感を受けて身体を震わすところからクエーカーと呼ばれた。一八八五年(明治十八年)十一月十三日付の宮部あて手紙に「僕は日曜日ごとにクエーカーの集会に出席しています。あの単純で、真面目なところが非常に気に入りました」とある(3)。新渡戸は一八八六年(明治十九年)十二月九日、ボルティモア・マンスリー・ミーティングの正式会員として認められる(4)。
メリー・パターソン・エルキントンが生れたのは、一八五七年八月十四日で新渡戸より五歳年上である。メリーはフレンド派のウェストタウンスクールを卒業すると、そこの助教諭となり、哲学、世界地理、世界史、文法を教えた。メリーの甥のジョセフ・パスモア・エルキントンのまとめた「Dr. INAZO NITOBE, MARY P. E. NITOBE」によると、フィラデルフィアのフレンド・ミーティングで、クエーカーの婦人たちがボルティモアの会員になったという日本人の青年を招いた席であった(5)。フィラデルフィアの実業家ウィスター・モリスはペンシルバニア鉄道の重役で、ペンシルバニア病院の経営者であった。メリー・モリス夫人は、フィラデルフィア・フレンド派婦人外国伝道会の会長で、毎月一回日本人留学生を屋敷に招待し集会(バイブル・クラス)を開いていた(6)。内村鑑三は先にモリス邸に出入りしていた。ジョセフ・エルキントンによると、新渡戸と内村は一八八五年六月二十八日、婦人外国伝道会に招かれて出席した。伝道会は日本への伝道を計画し、新渡戸たちに意見を求め、新渡戸は日本の女子教育の必要性を説いた。二人の助言に基づいて外国伝道会は、ただちにジョセフ・コサンド夫妻を宣教師として日本に派遣する。十一月十三日付の宮部あて手紙でも「近頃のちょっとした出来事と言えば、先週、カンサス州のジョセフ・コサンドという人が、最初のクエーカーの伝道師としてわが国に旅立たれということでしょう」と特筆している (7)。『普連土女学校五拾年史』に「たまたま同地方に留学せる日本人の青年学徒を委員会に招いて、意見を聞くことになった。この時、招かれた留学生こそは、実に太田稲造氏(後の新渡戸博士)と内村鑑三氏であった。両氏は友会の思想と、我が国神道とのそれと比較して、その神殿堂宇の質素さ、儀礼装飾よりも実質を貴ぶ点等において相通ずるものあることを述べて、友会思想が必ず日本人の心に共鳴するところであると言われ、更に太田氏は、我が国の女子教育が未だ寥々(りょうりょう)たる状態に鑑みて、女子教育施設の必要を説かれたので、同会は協議を重ねた結果、遂にジョセフ・コサンド氏とセラ夫人を我が国に派遣し、キリスト教主義女子教育に力を尽すこととなった」とある(8)。
一八八六年一二月、新渡戸は「日本の事情」について講演した。その直後、日本について関心を持つというメリー・パタソン・エルキントン嬢に紹介された。メリーは熱心に日本について質問をした。新渡戸には英語で書いた日記があって、メリーと出会った日の日記に「なんという美しい威厳のある婦人であろう。このような米国婦人が、日本に来て、日本の婦人たちを指導してくれたならば、日本の婦人たちもどんなにか幸福であろう」と書いているという (9) 。新渡戸は日本の出版社からアメリカの婦人の地位について書くよう依頼されていて、メリーに話すとすぐ協力を申し出た。メリーは友人のアンナ・チェイスに「私の生涯の仕事がどこにあるのか、告げることができるのはこの人しかいないと感じた」と語ったという(10)。
新渡戸はその半年後ドイツに留学する。新渡戸の執筆中の学位論文「日米関係史」は日米条約にからみ、メリーに条約改正についてアメリカ議会の情報を送ってくれるよう依頼した(11)。ドイツに渡って三年間二人は手紙のやり取りを続けた。「大西洋をゆっくりと行き交う長文の手紙は、思慮深いクエーカーの婦人と日本の紳士との間に、求婚の意思をはぐくんでいった」(12)。
(1) 『帰雁』七六「宗教の勢力」
(2) 『帰雁』七八「友徒(クエーカー)」
(3) 『鳥居』p.69。
(4) 『松隈』p.146。
(5) 『アメリカの新渡戸稲造』佐々木篁、岩手放送(以下『佐々木』)、p.77。
(6) 『新渡戸博士追悼集』全集追録。佐伯理一郎氏は、「私は一八八六年、米国フィラデルフィアに於て新渡戸君と心安くなった。当時フィラデルフィア郊外、オーヴァプルックに同地有数の大富豪モリス家の宏大なる邸宅があったが、モリス氏は毎月第一の土曜日、自邸に日本人の留学生を招いて基督教の集会をしてゐた。其は如何いふ集会であったかといふと、ドクター・ウッドといふ長老派の牧師が先づ我々にバイブルを輪読させ、それから自分で其を講釈し、祈祷を以て終るといふようなもので、大体一時間位のものであった。終って後に家族と夕の食事を共にし、色々の雑談を交し、日暮から夜十時頃まで続いた。其処には新渡戸君や内村鑑三君や、串田万蔵君、林民雄君、伊丹次郎君、和田義睦君などがよく出席した」(p57)。串田万蔵氏も、フィレデルフィア在留の日本人は集まる機会が多く、ウィスター・モリス氏夫人の所に毎月一回くらい招かれたと述べる。「其所は費府の郊外で有力なクエーカーの住宅のある所でありましたが、其モリス夫人もクエーカーでありまして、同家に行きますと何時も聖書の輪読講話があるのであります」(p.55)。
(7) 『鳥居』p.69。
(8) 『鳥居』p.85。
(9) 『松隈』p.154。
(10) 『佐々木』p.81。
(11) 草原克豪氏は『新渡戸稲造1862-1933』p.132で「『日米関係史』の序文の中で、稲造は、「校訂と校正について貴重なご助力をいただいたフィラデルフィアの友人、メリー・P・エルキントンには、たいへんお世話になった」と記している」と指摘されている。メリーは新渡戸夫人となってからも、I.NITOBEとK.UCHIMURAという二人の日本人が英語で世界に発信したグレイト・ブックスの校訂と校正について、貢献し続けるのである。
(12) 『佐々木』p.84。



 一八八七年三月、半年前にジョンズ・ホプキンズ大学を卒業し帰国した佐藤昌介から、新渡戸〔当時太田〕と広井を札幌農学校助教授に任命し、満三ヵ年、ドイツ留学を命ずる旨の辞令が届いた。五月二十八日、新渡戸はイギリスに寄って目的地のドイツのボン市に六月下旬到着した。一年後ベルリン大学に移り、半年後更にハレ大学に移る。佐伯理一郎はアメリカで新渡戸と面識があったが、ドイツのハレ大学に留学し一緒に学んだ。佐伯の回想によると新渡戸は佐伯に語った。「ある土曜日の午後、君(佐伯)と一緒に行ったことのあるあの郊外のミルク・ホール、かしこから夕方の薄暮れになってしまったので遅くならぬうちに帰ろうと歩いて来ると、向こうからミス・エルキントンが来るのである。握手しようと手を出そうとしたところが、よく見ると違っていた。それはカトリックの尼さんであった。(クエーカーと頭に被るものがよく似ているのである)自分は馬鹿なものをしたものだ、どうしてあんなことをしたものかと思いながら下宿に帰って来たところが、彼女からの手紙が来ていた。-それが彼女の"first love letter" であった。それで自分も非常に感じ-これは神のお導きと思い、祈って、彼女に"yes"と言うてやった」(1)。

宮部の「小伝」では「ある日のこと、たそがれ時にボンの市中を散歩しておりますと、黒服をまとった嬢そっくりの若い婦人に会ったので、驚きかつ喜んで『あなたはいつここに来ましたか』と問いかけたところ、その姿は消えて見えなくなってしまったので、不思議なことがあるものだと思いながら宿へ帰ってみると、机の上にエルキントン嬢からの手紙が置かれてあるのを見て驚喜したという話は、その後私がベルリンで君に会った時、直接に聞いたローマンスであります。」(BBAp.129)と出会いの不思議さが強調されている。この結婚は両方の家から激烈な反対にあう。養父の太田時敏は日本人は異人と結婚すべきでないという長文の手紙が来た。新渡戸が当時ベルリン大学留学中の広井に相談すると「君たち二人はクリスチャンである以上、終りまで全うすると信ずる」と賛成した(2)。一方、メリーの両親は大反対でフレンド派の主な人々も反対だった。しかし、メリーの気持は揺るがなかった。メリーの弟ウィリアムが、日本人などに姉をやりたくないとドイツまで行こうとした時、「ウィリアム、あなたは好むなら外国に行ったっていい。ベルギーにだって行ったっていいし、イナゾーを訪ねてもいい。だけどお願いだから、私のことについては邪魔をしないでほしい。私は駆け落ちしてでも、イナゾーと結婚します」と言ったという(3)。

メリーの父ジョセフ・エルキントンは、一八九〇年ドイツのハレ大学で博士号を取得しアメリカに戻った新渡戸の訪問を拒否するほど結婚に反対し、遠い国に行こうとする娘を「エルキントン家の者は三ヶ月に一度、少なくとも年に一度は、結婚後も会合する習慣だったではないか」と言った。これに対しメリーは「私はイナゾー・ニトベと結婚するつもりで。フレンド派の人たちに見守られ、その規定に従って結婚します」と答えたという(4)。

最初、両親が同意していないと二人の結婚を許可しなかったフレンド派の集会も、十二月二十五日「すべての情況からみて、我々の会の通例に従い、彼らの結婚が成就するよう認めるほうが良い」と結論を下した。メリーの両親はこの集会を欠席した(5)。

一八九一年一月一日、二人はアーチ・ストリートのフレンド・ミーティングハウスで結婚式を挙げた。メリーの両親は出席しなかった。二人を支え続けたのはメリーの弟ヨセフの妻サラであったようだ。前年一八九〇年二月二十一日ボンから新渡戸は、娘を失うメリーの母を慰めてほしいとサラに依頼する。「私たちの婚約の発表がエルキントンご一家に悲しみを与えるに相違ないだろうということは十分承知していました。しかし、私たちは正しいことをしているのだという明確な意識をもって断行しました。-この問題について長々と申し立てることは無用でしょう。あなたは、この問題をよくご理解下さっておられることを知り、喜びにたえません。現在、私の心にかかっている最大の重荷は、娘を失った悲しい母に対する心配であります。親愛の友よ、あなたはひとりの他国人にすぎない私にさえ親切なご配慮を約束して下さいました。私のとった行動のためにいたましく傷つけられている気の毒な母上を慰めて下さいとお願いすることは厚かましい仕打ちでしょうか。願わくは偉大な癒し主が彼女の傷をいやして下さいますように。その主の指導のもとに私たちは行動したと信じていますので」(6)。何という思いやりにみちた手紙であることか。それにもかかわらず二人ともその結婚は主の導きと信じたのだ。

フィラデルフィアの名家のひとり娘と東洋人との結婚は、極端にいえば全米の話題となった。メリーの友人が保養のため地中海を航海していた時、船長が「あなたはフィラデルフィアの方だそうだが、六、七年前、フィラデルフィアの婦人で日本人と結婚した人があるという事を新聞紙でしきりに噂しました」と話したとある(7)。フィラデルフィアの代表的な新聞インクアイア紙は一八九一年一月二日「東洋人(AN ORIENNTAL)との夫との結婚-恋ゆえの若い女性の献身」という見出しで次のように伝えた。「彼女の東洋人の妻となるという毅然とした態度は、両親の反対によっても変えることはできなかった。そして式があげられた。この古風な趣きのある、アーチストリートのフレンド・ミーティングハウスで、日本の政府役人、留学生、クエーカーのイナゾウ・ニトベと、クエーカーの町の最も古い家系の娘、メリー・パターソン・エルキントンが結ばれる-ということ以上の、元日の朝の関心事はなかった。ミーティング・ハウスの周りは、参会者が到着する以前に、黒山の人だかりだった。エルキントン嬢は、ビロードで縁取りした茶色の地味なドレスと、縁無し帽子をかぶって花婿によりかかるようにし、またニトベ氏は、質素な黒のアメリカ風のスーツと、シルクハット姿で会場に姿を現した。 花嫁の両親の姿は見えず、二人の座るべき席には、メリーの叔母サラと、夫のエフリアム・スミス氏が座っていた。また新郎側の両親の席には、イギリス人のクエーカー、J・レンドル・ハリス夫妻が座った。全員が席に着くと、若い日本人は立ち上がって花嫁の手を取り、宣誓した。『私はこの女性を妻として大切にします』。イナゾーの顔は、緊張のためやや青ざめ、声も小さかったが、しかし厳粛できっぱりした決意が感じられた」(8)。





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最終更新日  2019年10月21日 04時41分17秒
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