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2020年01月25日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
「松島十湖」遠州偉人伝 その1

「松島十湖」遠州偉人伝 その2 人の為に

  一
 十湖が小田原に、二宮尊徳の教えを受けに行った年の夏のことだった。それは明治2年、徳川幕府は崩壊し、世は明治の聖代と喜んでいるときである。
 しかし、十湖は喜んでいられなかった。それは打ち続く大雨で、天竜川の堤防が十湖の住む中善地村で数百メートルにわたって決壊したことだった。
「ああ、大変なことになった」
 その数年前の、万延元年の決壊にこりて、村民が苦心して築き上げた堤防が、見る見る間に崩れてしまったのだ。そしてあの時荒地となった田畑を、昨日までかかって拓いたのに、今はまたしても、荒地としなければならなかったのである。
「困ったなあ」
 人々は泣いて悲しんだ。そして更に困ったことは、田畑の作物の流失は、食べる物もなくなったことだった。
 しかも中には住む家を流して、住むところもない村民さえあるのだった。
「可哀そうだな」
 十湖の家には、貯蔵の米と麦が、数十俵もあった。
「そうだ。これを施そう。二宮先生の教えを実行するのはこの時だ」
 十湖は妻や母を説得して、倉を開いて総ての米と麦を、困る村民に与えてしまった。
「有難いことだ。吉平さんはほんとに神様じゃの」
 食べるものもない村民たちは、手を土について感謝した。しかしこのため十湖の家には手持ちの米がなくなって、その数日後には母のりうは、天王新田の米屋まで、米を買いに行かねばならないほどだった。
 母は米屋に米を買いに行くことにいやな顔をしたが、十湖は、
「お母さん、苦しい時はみんな同じです。あるからといって、勝手な振る舞いをするのは間違っています。施す力のある者が施すのは当然のことですよ」
 と母をさとすのであった。この持っている人が施すという主義を、十湖は生涯続けたのである。
 十湖のこの義侠は、たちまち世間の評判となって、
「あの人は、若いのに偉い人だ」とうわさは四方に広まって行った。
 これを聞いた浜松県庁の、天竜川の営繕司高石幸次郎は、
「そういう骨のある男なら」
 と早速、営繕司御用係りを、十湖に命じて来た。
 そして天竜川の復旧工事についての、各種の役を申し付けたり、相談相手としたりした。
 営繕司御用係りは、その年の11月で終ったが、しかし続いて中善地村の百姓代を命ぜられたり、村の八雲神社の神主になったりした。百姓代とは庄屋の役のようなものだった。十湖はこの頃から、世のためにつくすことの、大きな意義のあることを知っていた。
「そうだ、人の為になっておくことが、生まれて来た甲斐があるというものだ」
 十湖はその頃、天竜川の西と東の交通に、渡し船のない不便を痛感していた。いろいろな用事はあっても渡し船が許されていないので、遠く3キロも下流の、池田の渡船場まで行かなければならないのであった。
「この中善地にも、渡し船を許されたらなあ」
 村民の声を聞くにつけても、十湖は痛感しているだけに、黙っていることができなかった。
「そうだ、頼んでみよう」
 十湖は浜松県庁に乗り込んで行った。それは明治5年、24歳のときである。
 当時の浜松県庁といえば、県令林厚徳(はやし・ あつのり)を中心に、権参事石黒務(いしぐろ・つとむ)、権大属大江孝文(おおえ・たかふみ)*などと25人の県官が、威儀厳然とひかえていて、徳川時代の名残が強く、政府を笠に着て威を張る、官尊民卑の強い頃とて、百姓の若者などで、県庁の敷居をまたぐ者などは、誰ひといない時代であった。
 しかし十湖は平然と県庁に入って行った。

  二
 十湖は浜松県庁の林県令の前に行くと、
「県令殿、世は明治開花の時代というのに、なぜ徳川時代のままで、天竜川に渡し船を許さないのです。池田の渡し船のみとは不都合千万です」
 と言った。
「貴様は何じゃ」
「中善地村の百姓代です」
「百姓代だ!百姓代の若造のくせに、我々の県政に容喙するのか」
「必要があって言うのです」
「何を、ここな狂人、下がりおれい」
 十湖はついに狂人扱いされて追い出されてしまった。しかし屈しなかった。
「村のためだ。良いことはどこまでもやる」
 十湖は隔日に、浜松県庁に出頭して、県令に陳情した。県庁では、十湖をいつも狂人扱いにし、村人もまた、その粘り強さにあきれはてた。しかし母のりうだけは
「村のためだ。くじけなさるな。おやりなされ」
 と励ましてくれた。実に前後三十六回も請願した。その結果、県庁でもその実状を調べて、遂に中善地渡し船の開設を許可したのであった。
 このために中善地村や、笠井町その他関係村民の利益は大きく、後にはここに豊田橋という橋さえ架設するほどになった。
 こうして、村民の為に働く十湖の努力は認められて、明治6年、戸長役場の制度が公布されるとともに、初代の中善地戸長を命ぜられた。
 ところでその頃、隣村の笠井町には、旧家の者たちが勝手な悪習慣を作っていて、せっかく町が発展しようとしているのを、横で阻害していた。
「こんな悪習は矯正しなくては駄目だ」
 十湖は常に笠井町民に語っていたが、少しの反応もなかった。それで遂に、
「笠井町悪弊矯正論」
 という一文を書いて、中善地村・松島十湖と署名し、東京報知新聞に投書した。数日してそれが新聞に掲載されると、驚いた浜松県庁では、早速通達書を中善地村戸長あてによこした。
「その方が村の松島十湖なる者を召し連れ、来る何日、当庁に出頭すべし」
 これを見た十湖は指定の日、浜松県庁に行って、戸長松下吉平の名刺を出した。
「おお来たか」
 名刺を見た権大属大江孝文は怒鳴った。大江は
「雷大江」
 と言われているくらい、大声に威張っている男で、かつては県下三百の小学校を一喝のもとに新築させたというほど有名な男だった。大江は十湖の一人なのを見ると
「吉平、十湖はどうした」
「はい召し連れて参りました」
「どこにいる」
「ここにおります。この私です」
「何、お前が戸長の吉平であって十湖か」
「その通りです」
大江は雷のような声で
「怪しからん。一身で両名を使うとは、許せないことじゃ」
「十湖は私の号です。決して一身両名を用いてはおりません。文章を書くとき、号を使うのは、昔からの日本の慣わしです」
これには流石の大江も兜をぬいだ。
「そうか、然らば、笠井町の悪弊論は、まことのことか」
「あれに間違いありません」
 十湖はその実状を詳しく訴えたので、大江孝文も初めて悟るところがあって、
「よし、わかった。私も骨を折る」
 とその後笠井町に来て、悪習打破を町民にはかって矯正させたのであった。

(続く)


(続く)

*森鴎外, 渋江抽斎:「後大江は県令林厚徳に稟して、師範学校を設けることにして、保を教頭に任用した。」





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最終更新日  2020年01月25日 16時57分40秒
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