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2020年03月14日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
1 鳥居信平 東京帝国大学卒業まで
 鳥居信平は一八八三年(明治一六)一月六日、静岡県周智郡上山梨村(袋井市上山梨)の裕福な農家の三男として生まれました。父は鉄次郎、母はたのといいます。信平の二人の兄は農業を継ぎましたが、優秀な成績で静岡中学校を卒業した信平は金沢の旧制第四高等学校へ進学しました。一九〇〇年(明治三三)の事でこの年、信平が後に活躍する台湾製糖株式会社が創設されています。
信平の故郷袋井は報徳運動が盛んで耕地整理発祥の地です。また隣接する森町からは砂糖王・発明王と呼ばれた鈴木藤三郎、磐田市からは技師・青山士(あきら)を輩出しています。鈴木藤三郎は台湾製糖株式会社初代社長であり、「両得農業法」(会社も農民も両方得をする、つまりWin-Winの関係)を会社の方針としました。
信平は東京帝国大学では農業土木を専門とし、
忠犬ハチ公の飼い主として知られる上野英三郎博士に師事しました。「台湾の機械耕作概観」に「故上野英三郎博士が大正四年の一二月に渡台せられ、翌五年正月には南部を巡視された。筆者(信平)はその時約半か月間お伴をした。あたかも台湾製糖でスチーム・プラウ作業をご覧になった時、ハワイの甘蔗耕地におけるトラクター使用を話され、台湾でもその時が来るだろうから今から研究せよと垂示された」とあります。
 一九〇八年(明治四一)信平は帝国大学農科大学を卒業しました。卒業論文のテーマは、三重県を流れる宮川の「宮川地区灌漑組織論」でした。本論文は同年四月に十日間調査し六月に提出されたもので宮川の実地踏査によって大体の設計方針を定めたもので、持続的農業経営のための水利設計を行っています。上野博士は三重県一志郡本村(現在の津市久居元町)出身で、テーマも含めて信平を本論文を指導したように思われます。

宮川地区灌漑組織論 
 信平の卒業論文テーマが「宮川地区灌漑組織論」であることを明らかにされたのは、平野久美子氏で『水の奇跡を呼んだ男』(平成21年6月5日)に「1908年、信平は東京帝国大学農科大学を卒業した。卒業論文のテーマは、三重県を流れる宮川の「宮川地区灌漑組織論」だった。三重県といえば、いまも全国有数の地下水が豊富なエリアとして知られ、県内には横井戸式の地下水灌漑施設、通称マンボが数多くある。信平の卒論もそれに関連しているのかと思ったら、テーマは農業経済と水利の関係を説いた土地改良論だ。この中で信平は具体的な数字をならべて、用水量の算出方法や灌漑施設の工法を述べている。信平は、その六年後台湾へ渡って、学生時代からの持論を実践、実証することになる。」(p.67)とある。
信平は明治41年4月より10日間この設計に関する実地踏査を行い、大体の設計方針を定めた。項目を見ると、第一編地区現状では第一章地区現況において地勢・土質、第二章水利調査において用水、用水源調査、現在用水量、用水過不足等、排水、第三章農業状態においては地目別、農業規模、土地区画、土地価格収量等、第四章地区現状と農業経済上の関係で、第二編水利基本設計という構成であり、地区現況、水利調査、農業状態、農業経済調査を十分に行った上で水利設計するという態度は徳島県技師、台湾製糖会社の水源と灌漑の開発に生涯活かされている。
卒論は1908年(明治41年)6月に提出されているが、注目すべきは、1906年(明治39年)5月に宮川地区に蒸気機関による揚水機が設置され、地下水による灌漑が実現しており、信平はそれを視察している。
「水土の礎 三重県宮川用水農業水利事業」には「度会郡豊浜村(現在の伊勢市西豊浜町)では、毎年2月6日を「灌水記念日」と定め、この日は、村の人が仕事を休み「小川徳三郎翁」の遺徳をたたえるという、わが国でもめずらしい風習が続けられています。小川徳三郎は、鈴鹿の白子町からこの地方に移り住んだ人物で、当時としては誰も考えたことのない、大規模な機械による揚水を企画し、地下水による灌漑を実現させ見事な成果を上げます。この驚嘆すべき現実を見た西豊浜地区の農民が、早速小川氏に指導を懇願して、落水地区に長さ50間、巾9尺の、尺八堀という大井戸を掘り、その傍らで石炭を焚き、蒸気機関を動かして水を揚水し、水田を満たしました。明治39年5月のことで、蒸気機関によるかんがい施設は、わが国最初のものになり、その記録は貴重な資料として今も農林省に保存されています。現在、公民館の前庭に憲政の神様といわれた尾崎行雄の筆による灌水碑が建てられています。」とある。
信平はこの視察で揚水機に着目し、機械力による水源開発に活用したように思われる。


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最終更新日  2020年03月14日 10時33分11秒
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