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カテゴリ:広井勇&八田與一
技師 八田與一(よいち)
1 台湾に渡るまで 2 師・広井勇と「紳士の工学の系譜」 コラム1 内村鑑三「旧友広井勇君を葬るの辞」より 3 青山士(あきら)・人類のための工学 コラム2 南原繁「ある土木技師の生涯」より 4 八田與一「台湾土木事業の今昔」 八田與一は昭和十五年、「台湾土木事業の今昔」という講演(「台湾の水利」第十巻所収)において、日本と台湾の土木事業を四期にわけて概観しています。「八田の大風呂敷」と言われたように、ユニークな口上で始まります。 「私は昔を模倣しません、昔を参考として、前へ進むことをモットーとする技術者です。」、 そして「将来の技術者のため、台湾における土木事業の進んで来た行程を書き残し、参考に供したいのです」として、土木第一期時代から第四期時代まで概観して述べています。 「土木第一期時代」は、指導監督は外国人に仰ぎ、明治三十年くらいまで続きました。 台湾における土木は、日本の第二期から始まります。当時の指導者は第一期時代に、外国人から指導を受けた長尾半平、高橋辰次郎技師等です。これらの人々が台湾に渡り、外国を模倣しても日本人だけで仕事をしたのが「土木第二期時代」です。当時、新進技師として明治三十年頃大学卒業の徳見常雄、山形要助、川上浩二郎、濱野弥四郎、十川嘉太郎、清水一徳、帳令紀の諸氏がいました。これらの人々は初めから係長で多忙であり、仕事は技手にまかせ、自分は外国の本を読んで模倣させました。当時の主な仕事は「新店渓発電所」「台北水道」「瑠公圳水橋」「築港」「莿子埤圳、獅子頭圳工事」「台北市区改正」があります。新店渓発電所工事は山形技師の設計で、水力電気としては鬼怒川や桂川より早く京都の疏水発電に次いだ水力発電です。台北水道の計画をしたのが濱野技師で、設計者は十川技師です。鉄筋コンクリート造の貯水池や沈殿池としては、日本で始めての仕事です。瑠公圳水橋は日本の鉄筋コンクリート造としては最初の橋で、十川技師の設計です。築港は基隆湊、高雄港には、山形、川上両技師がいて、基隆の岸壁や高雄の防波堤等は世界屈指のものでした。莿子埤圳、獅子頭圳工事は共に十川技師の設計で、数千町歩の開田としては日本で最初のものです。台北市区改正は濱野技師の設計で、当時外国では馬車、電車、自転車の全盛時代でこれらを主眼とした設計で、町の中心に短距離で集まることを主眼としています。日本では市区改正はできていませんでしたが、台北では私が来た明治四十三年には、市区はだいぶ整然としていました。しかし三線道路などは歩行者が少なく、草原で毒蛇がいるので評判が悪く、道幅を狭くするという議論が多かったのですが、濱野技師が聞き入れることがなく現在まで残りました。ある道路では同技師の引退と同時に変更されたものがありました。后里圳は清水技師の計画で日本における始めての鉄筋コンクリート造のアーチ橋で廣瀬技師の設計です。取入口付近には、大安渓の乱流を防ぐため大きなコンクリート塊の護岸なども当時できました。お蔭で二千町歩の土地が浮き上がりました。台北電話交換局は徳見技師の設計で鉄筋コンクリート造の建設の始めです。鉄道は本線及び阿里山鉄道、建築では土木部、中学校、総督及び長官官邸、台湾銀行、図書館等でした。これらの事業の手足として台湾に来たのが、私や松本虎太、大越大蔵、中西義栄、池田季苗、堀見末子、廣瀬蒼生彦、高山節繁、庄野巻治、筒井丑太郎の各技師です。第二期時代の末期における工事とは全島主要市の改正及び水道等で、水利事業は大正元年の洪水で河川事業に変りました。大正二年も引き続いた大洪水で大騒ぎでした。こんな洪水はその後来ないようです。最も濁流暴威を振ったのが濁水渓で台北も半分以上水害を受けました。当時の河川工事の方針は台北だけ防水堤を行い、その他の地方は乱流を防止する護岸工事を河の出口を行うに止めました。各川の鉄橋付近の蛇籠護岸は当時の遺物です。この工事中に亀甲形の鉄線蛇籠の造り方をある工夫が発明し、レンガ沈床を十川技師が考案しました。二人とも台湾、いな日本における土木界の功労者です。当時日本では鉄線蛇籠の造り方が面倒で余りなく、常願寺川でも、手取川でも、常に堤防を決壊され被害を受けていたのです。このように第二期末期には、ぼつぼつ創造がありました。 「土木第三期時代」は創造時代で、台湾では第一次大戦後、日本国内では東京震災後になります。私たちは始めて技手として前線に立ちました。しかし係長ではなく一使用人に過ぎません。ただしその効果は外国の模倣を脱しようとする努力でした。ちょうど高雄から山形技師が課長として赴任しました。山形技師は何でも変わった仕事が好きでした。水利事業も再検討が大正四年に始まりましたが、余り良い結果がありません。止むを得ず取りかかった仕事が桃園大圳ですが、調査不十分で難工事でした。淡水川の橋梁も護岸の残金二十七万円で、コンクリート橋脚という新式の方法で取りかかりましたが、私はこれに反対し、山形課長の信用がゼロとなりました。私は台北水道拡張として淡水川説に反対し、大屯山の湧泉調査を主張しました。土林や淡水に湧泉があるから火山系統ではまだまだ沢山あるというのが私の論拠で、草山下の湧泉は調査後判ったのです。山形技師の再検討の結果、生れ出た工事は日月潭水力と嘉南大圳でした。この時代は私の最も研究努力時代で、成立当時の内容を詳細に述べます。近頃は研究しても討論の相手がないのですが、当時は山形課長という相手がありました。山形課長は、少し旗色が悪くなると「馬鹿、馬車馬」の一言で追い払われました。私は山形課長からこの言葉を三度言われた事があります。 日月潭水力電気は国弘長重技師が発見しました。同技師は早く技師となって、台中や高雄の電気の所長でした。南部は冬期は渇水で后里や六亀里の発電に困っていました。当時二層行渓に貯水池を造るといわれた時代でしたが、これは灌漑用のみで水力には使用ができませんので、常にいろいろ案を建てましては同輩である私に賛成を求めました。最初、旗山付近に貯水池を造る案を示しましたが、私が賛成しないので中部辺まで調べて、遂に日月潭に目を付けました。最初は湖水の水で何とかならないかと申しましたから、私は集水区域が少なくて僅かの電力では引き合わないと賛成しないでいたところ、遂に姉妹原から引き入れたら五里のトンネルで来ると申します。それで私はなるほど図面通りなら結構だと賛成しましたら、喜んで大越、山形両技師に話し、先輩の中堅の技師の賛成を得て大騒ぎとなりました。日月潭水力の設計に際して気の毒なのは専任技師がいなかったことです。庄野技師が専らやっていましたが、河川調査が本務でしたから多忙で設計に専念して従事することができず、運搬は高山技師、機械は中西技師というふうに十分の統括ができず無理が生じたものです。しかも設計当時は六十銭くらいであった労働賃金は大正九年には九十銭以上に騰貴し、官吏の増俸も行われたという時代でした。私は取入口の沈砂池のかわりに本流に貯水池を造ることを奨めましたが、当時本流締切は危険であるという観念が強く逡巡しました。しかし取入トンネルの内径四・五メートルや貯水池の容量一億六千万立方メートルは良い計画でした。なお余り急いだので水量の調査が不十分でしたから、年流量の取り方が大きくなり、通常渇水年でも火力を要するに至った事は、貯水式発電としては残念な次第です。したがって万大付近に貯水池を設けて河水を調節する必要があるのです。いずれにせよ本流を締め切る場合には、その上流の治水策を樹立する必要があります。日月潭水力は下流集々、二水と第三、第四の発電を起す可能性はあります。 嘉南大圳については土木局の庶務課長で桃園大圳に関係されていた嘉義庁長相賀照郷氏が自分の庁でも桃園のような貯水池を造ってくれと、当時の土木課長山形技師に申し込みました。私はその当時、衛生工事に従事していて、南洋観光団の一員として旅行し、復命書を書いていました。山形課長は私に相賀君は地勢を知らず貯水池を造れと無理をいう。昨年は南部も水利調査をやったが良い案もない。君は今仕事の手空きだから申し訳的に嘉義まで行って来てくれといわれました。私は高雄、台南、嘉義の水道に関係し、南部の地勢も少しは知っているので、図面上でもいろいろ研究した結果、同地方の谷を十四か所締め切ると約十万平方メートルくらいの夏期一作田ができるはずだから、一か月出張させてほしいと申し出ますと。昨年来、埤圳調査をやった結果、嘉義方面は見込みなしということだったとなかなか承知されないのを、堀見技師の仲裁で、二週間ほどの視察ということで折り合いました。相賀庁長は非常に喜んで、当時の支庁長あるいは外勤警部補の案内で、貯水池のできそうな各谷々を尋ね回りました。貯水池のできる所、十四か所中最大の官佃渓埤圳計画七万五千平方メートルが採用されたのです。三年間にサトウキビ一回、水稲二回です。ところが当時日本における砂糖は十二万トン不足で、年二千万円から一億の輸入が必要でした。サトウキビ十二万トン増産の目的で十五万ヘクタールに拡張して、サトウキビ五万ヘクタール、水稲二万五千ヘクタール、すなわち六年輪作業が議会に提出されたのです。電力会社案と二つ下村長官が持参されたのですが、輸入の関係上、大蔵省の空気は良かったのですが、調査不十分という理由で一年待たされ、議会後五月から急に十五万平方メートル灌漑地調査が、四万五千円(人件費以外の調査費)で始まりました。工夫六十人と一緒に嘉義高砂ホテル跡に陣取り不眠不休六か月間で測量調査、支分線の設計まで終わりました。各班長は皆技手で阿部貞寿、齋藤巳代治、佐藤龍橘、小田省三、磯田謙雄の諸氏です。三年輪作については、当時私は農業の知識がなく、殖産局に打ち合わせますと、サトウキビを三年に一回植えるようにしてくれという事でした。眞室技師から聞きました。冬期給水のサトウキビ用貯水池を設計し水量を調べますと、夏期貯水池を利用すると水田が一回使用できるので、三年に一回、サトウキビ一回、中間作、水田という案を提出しました。上層部は水田のため工費が増加するに相違ないという意見もありましたが、水田三万三千ヘクタール、サトウキビ三万三千ヘクタール、雑作三万三千ヘクタール、計九万九千ヘクタール案と、サトウキビ五万ヘクタール、水田二万五千ヘクタール、雑作七万五千平方ヘクタール案の二つが採用されました。 大正九年の臨時議会は米不足の議会でしたが、米を増加する計画は官佃渓埤圳だけでした。議会が始まりますと米五万ヘクタールに変更して臨時議会を通過してしまいました。砂糖増産案が米増産案で通過したのです。水田五万ヘクタールの水量は八田貯水池にはありません。そこで濁水渓の水を利用する方針、すなわち夏期剰余水を水稲に日月潭調節水の六割をサトウキビ用に利用するものでした。一も二もなく採用され設計書は黙認的に変更されました。最初四百五十万円の予備金を用意してあったものが。増俸のため百七十万円、人夫賃増加のため三百万円を必要とし一時に不足しました。曾文渓取入の排砂設備をなくしたり、機械作業に変更したり、濁水渓の取入口を増設したりしました。人夫賃が九十銭になると機械での作業と同価格でした。 以上のように嘉南大圳の三年輪作事業が始まりましたが、殖産局の少壮技術者からたびたび攻撃されました。しかし現在では土地改良上、三年に一度以上水田を経営するのが最良策であるという事に変わりました。水田と畑作との三年輪作は嘉南大圳をもって一番最初とします。中国大陸に利用したら、台湾は大発見をしたと歴史家はいうことでしょう。半射水式堰堤(セミハイドロリックフィルダム)についてはアメリカでシルラーという技術者が射水式ダムを考案しました。ダム付近の高地に砂礫や土砂のある場合に、射水を吹き付け山腹を崩潰させ、樋で運搬してダムを造るのです。内部に粘土を沈殿し、外部を砂と砂礫で固めるのです。常に条件が良いという訳には行かないで、カタペラスダムのように礫の不足のため工事中決潰した例があります。烏山頭は周囲の山は全部粘板土で礫がないので、曾文渓から適当な材料を汽車で運搬して堰堤の両側に捨てて射水し築造する考案を建てたのです。最も理想案と私は思ったのですが、当時の内務技監や山形課長はそんな射水ダムはないというので反対でした。私は名案と思いましたから論文を提出するというと役所の秘密であると許しが出なかったのです。大正九年臨時議会頃になりますと、米国でホルムスという技術者が始め、また射水式のカラペラスダムが潰れましたので、嘉南大圳も半射水式を採用して支障なしという事になったのです。半射水式堰堤は土式のダムとしては最良の方法です。私は半射水の創案及び三年輪作の創設で自ら満足したいのです。一九四〇年は嘉南大圳創設二十周年で竣工十周年です。嘉南大圳の功労者は下村宏、山形要助、枝徳二、筒井丑太郎その他の方々です。組合員はこれらの方々を何らかの形式で表彰する必要があると思います。 「土木第四期時代」は、統制総合時代です。現代の技術者は私心を去って、国家のため東洋のために努力すべきです。各方面の技術者が集まって案を建てて行かなければ、自己のみの仕事ではダメです。道路の技術者がどこでも道路を造ると、運河の舟が通れなくなります。各職業の「マネージャー」は他の部門を勉強して大方針を決定すべきです。第四期時代は総合時代です。第二期模倣時代は明治、大正中に去りました。第三期創造時代は大正、昭和時代です。今後は統制総合時代です。青年技師はますます勉強・読書することを願う次第です。研究が足りません。モンゴルの高原を砂漠から救う道を考えていますか、物理学者も気象学者も研究が足りません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年03月28日 04時21分26秒
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