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カテゴリ:遠州の報徳運動
「翁の余徳」を読むと、当時の遠州三河の幅広い報徳・農業団体の交流がみてとれます。
40ページ 維レ明治三十一年一月二十五日吾ガ親愛ナル三遠農学社々長松嶋授三郎氏逝ク。悼哉咨嗟。本日ハ之レ如何ナル凶日ゾヤ。富嶽ノ崩ルル天命自カラ定数アリテ免ルベカラザルト云フト雖ドモ苟モ神明霊アリ仏陀精アラバ何ゾ此傑士ニ寿ヲ与ヘ世ノ急迫ヲ救済セシメザル神明果シテ霊ナキカ仏陀或ハ精ナキ乎否功成リ名遂ゲ身去ルハ即チ天ノ命ズル処ナリ。君逝ケ往テ天帝ノ側ニ待シ永ク吾生霊ヲ垂鑑擁護セラレヨ。 抑モ君ハ身ヲ微践ニ起シ夙ニ我報徳ノ道ヲ信ジ厚ク先輩諸士ニ交リ遂ニ其蘊奥ヲ極メ本邦有数ノ報徳人タリ。雖然謙譲自ラ守リ心志全然報徳ニシテ常ニ報徳ノ道ヲ行テ而シテ畢生自ラ報徳タルコトヲ口ニ発セズ。明治十五年進デ一社ヲ創設シ三遠農学社ト云フ。其主義トスル処専ラ人心改良ヲ図リ遂ニ農業改良ノ実行ヲ期ス。今ヤ社員全国ニ亘リ其数一万ニ垂ントスルニ至ルヲ以テ知ルベキナリ。予又曾テ先人ノ志ヲ継承シ報徳報本社ヲ結成シ夙ニ斯道ノ普及ニ志アルヲ以テ交リ甚ダ厚ク且ツ屡々其遊説ヲ恭フシ吾ガ社員吾郷ヲ利スルコト尠カラザラント欲 スルモ豈得ベケンヤ。社員郷人慟哭シテ禁マズ切ニ予ヲ促シテ吊辞ヲ捧ゲシム。嗚呼悲哉尚クハ饗ケヨ 明治三十一年一月二十五日 静岡県周智郡報徳報本社々員総代 社長 新 村 里 三 郎 ☆29 報徳報本社の成立と地域社会 幕末、二宮尊徳は荒廃した北関東の農村復興を行った。尊徳の方法は、支出に限度を定め(分度)、真心を尽くし(至誠(しせい))、勤勉に働き節約して(勤倹(きんけん))、そうして生じた剰余を借金の返済や貯蓄に回す(推譲)というものであった。この思想や実践方法を「報徳」といい、それを実行する結社を「報徳社」という。報徳運動は、静岡県西部地域において急速に発展し、明治後期には全国的な運動となった。 報徳運動は、大きく8系統(本社)に分かれ、発展し、それぞれに独自に展開した。森町に設立された報本社も8本社のひとつであった。1852年(嘉永5年)閏2月、新村里助らにより森町報徳社が設立された。里助と養子里三郎らは、報徳普及に努め、森町地域にも報徳社が 簇生 ( ぞくせい ) した。 95年遠江国報徳社との教義(きょうぎ)理解の違いから、森町報徳社を中心に報本社が設立された。1906年(明治39年)で32社が所属している。 報徳社では、教義の学習のほかに報徳金の貸付や農事改良の話し合いなどが行われた。しかし、信用組合や農会が組織され、日露戦争前後から政府により、「自力更生」を唱える報徳思想が宣伝されると、報徳社も公共性、精神性を強めていった。報徳社の公共性、精神性は民力涵養(かんよう)運動、自力更生運動、国民精神総動員運動などが展開する中でさらに強まり、教化団体としてそれらの推進に協力した。報本社が大日本報徳社に合同した後、森町には森報徳館がおかれ、現在でも活動が続けられている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年04月12日 09時00分54秒
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