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カテゴリ:遠州の報徳運動
森町社と気賀町社とは我が報徳の東西の柱石なり
福本先生一代記 十四 遠江国再興の事 先生、日光に至り二代先生に見え、遠江の事を告げ参らせければ是より再び遠江に赴むき報徳再興の事に任じたまひけるが、其の事は誠に容易にはあらざりき。 初め安居院先生の遠江に来りたまふや、ひたすらその道を伝えたまふを旨としたりければ、専ら教義を説き示すことを主とせられ仕法を組立て一定の目途を定めて行ひ給う事はいと稀れなりき。されば安居院先生のおはせし時、教を受けたるもの、五十四か町村に及びしと云ひ伝ふれども、先生遠江を一巡し給ひける時、社として存せしものは、僅かに森町、天神町、浜松町、気賀町、都田村の五か社に過ぎず。それさえ社員極めて少数にて森町は八名、天神町は七名にてありき。当時、遠江における仕法の有様知るべきにこそ。 されば此頃先生の各社を巡回したまふや、いと懇切周到を極め、或は一社の仕法に数十日を要し、或は一人の家政に数日を費したまふ事珍しからず。されど先生は絶えて倦怠の色をあらわさず、孳々(じじ)としてつとめたまひしかば、機運漸く回復に向かひ新に仕法を乞ふものをも生じたりき。それが中にも明治二年引佐郡刑部(おさかべ)社の創立と明治五年豊田郡山田社の創設とは東西における一双の大社にして遠江の報徳頓(とみ)に生色を加へける。 因みに記す。山田社の仕法は先生の行ひたまへる仕法の中にありて一種異例の仕法なりき。そは山田村は此頃大なる負債ありて紛擾を生ぜしによりて、先生に乞ふて仕法を行ひたるものなりしかば、其仕法の一半は難村旧復の仕法にして一半は永安の仕法なればなり。されば其の仕法の至繫至難にして債主負債主ともに苦しみ、明治十四五年に至りて始めて純然たる永安の仕法となれり。今にして思へば負債は其儘さし置き仕法は仕法として行ふの平易単純なるにしかざりき。斯くなせば仕法の行はるるとともに負債もまた自ら償却し、知らず識らずの間に負債償却の目的をも達せしなるべし。先生もも之を知らざるに非ず。されど安居院先生の教に依り人々報徳の仕法とし云へば難村復旧の仕法なりと心得たる余習あり。しかば姑(しば)らく其の希望に応じたまひし事とぞ覚ゆる。 十五 遠譲社本社創立の事 却説(さて)先生慶応三年始めて遠江に至り給ひしより早くも五年を過ぎ明治四年となりけるが、先生日夜丹精を尽し給ひし効あらはれて社数増加して九か社とぞなりける。ここに於て此の年八月某日各社を総括する所の本社を設くべしとて初めて本社秋期の会を気賀町鈴木徳右衛門氏方に開きけるが、本社成立したる上は宜しく社名をも設くべしとて遂に遠譲社と称し、本社に世話人重世話人を置き、其参会を毎年春秋二期とぞ定めける。 斯くて同年十二月各社重立たる人々、森町新村里三郎(山中里助氏此頃姓名を改めて斯く称しぬ)方に会して、相議して云ひけるやう「安居院先生歿し給ひ、報徳の教一たび絶えんとしたるに、先生来り、ひたすら力を尽し給ひければ、再び回復の運に向へり。是れ一つには小田原社の先生を派遣したるに依れり。さるに曾て一度も小田原社に至り、謝意を表せし事あらず。宜しく総代人を撰み、感謝の状をもたらして小田原社に至り、謝意を致さしむべきなり」とすなはち書面を作り、世話人十七名連署し、又新村氏をあげて総代人とぞなしける。斯くて新村氏には同月直ちに先生を送りて小田原社に至り、書面を出して懇ごろに小田原社の好意と先生の勢とを謝しければ小田原社にても大に喜び「当社は渺(びょう)たる一小社なれども二宮先生が親しく仕法を授け、善種金を下し給ひし社にして一日の長なれば善種金を貸せ参らすべし」とて、金百二十円を貸与し、内二十円は無利足置据となし百円を無利足五か年賦となしける。新村氏すなはち借主となり先生証人とぞなりたまひける。 斯くて新村氏には小田原社の優待を受け滞在凡そ六十日其間東栢山村に至りて二宮先生の逸事を問ひ近傍報徳社を尋ねて仕法の有様を観察し同年三月先生に供して遠江に帰りける。 さて新村氏は先生と共に帰国してければ其月十二日本社春期の会を自宅に開きて小田原社を訪ひたる顛末と善種金の処分を議しける時に気賀町なる鈴木徳右衛門氏云ひけるやう「報徳の仕法は各自加入金を為し、自他共に其慶に頼る。今小田原社に善種金を貸与せらる。各社も亦宜しく応分の加入金を為すべきなり」と。衆議之を賛し各々加入金を為すべしと、其の額を紙片に記してさし出す。先生之れを神前にささげ、然る後に之を閲すれば其額百十円なりき。先生新村氏と鈴木氏に云ひけるやう「加入金の額、善種金に比して十円不足なり。森町社と気賀町社とは我が報徳の東西の柱石なれば、希くば各々五円宛を増せ」と。二氏之を諾しければ、先生即ち各社に貸付を行ふ。衆之を見れば其の為したる加入金の額に一倍す。人々是れ二宮先生の行ひたまへる倍貸法の遺旨なるべしとて活用の妙を感じける。 斯くて各社を統一する所の本社自然に成立しける是れみな先生が予じめ後来を慮りて規画し給ふ所にてありき。 十六 遠譲社分離の事 明治四年八月遠譲社創設せられて各社を統一すべき本社を生じ、又其の本社より各社に善種金を貸与する事となりければ、遠江に於ける報徳社の体勢茲に始めて定まり、これより仕法益々隆盛に赴き、新に仕法を乞ふもの次第に増加し、明治十二年に至りては社数増加して三十余か所とぞなりける。然るに今年三月二十一日城東郡川上社に於ける本社春期の会に於ける本社春期の会に於て端なく一場の議論を生じ、其の結果若干の社は遠譲社より分離する事となりぬ。 是より先き明治八年中、岡田良一郎氏、別に一社を創め、之を遠江報徳社と称し、其の事務所を浜松玄忠寺に置き、安居院先生の墓碑を修め、毎月社員を会せしめれば各社は恰も両属の姿となりて頗る方法に迷ひけるが川上社に於ける参会、偶々此事問題となり議論決せず、遂に各社各々欲する所に従ふ事となりて分離しける。 此の分離の結果は如何なりやと云ふに安居院先生によりて創立したるものは概ね去りて報徳社に入り、福山先生によりて創立したるものは概ね留まりて遠譲社を維持しける。ここに於て遠江の報徳社截然分れて二つとなり前者は主として難村復旧の仕法を行ひ後者は主として難村復旧の仕法を行ひ、後者は主として永安の仕法を行ひける。 十七 遠譲社社則制定の事 明治十二年分離の事ありしかば分社の数著しく減じたり。しかれども是れ実は異分子を去りたるものなれば遠譲社は是れが為めに毫も衰退せざるのみならず、此の分離により益々隆盛に赴きける。 さて遠譲社は此年に至るまで未だ社則の設けあらざりしが此年静岡県庁より社則を定めて届け出づべしとの達しありしかばここに始めて社則を定めける。 斯くて社則制定せられて先生の主義益々明かに発揮せられたりしかば、これより教を乞ふもの日に月に増加し、明治十九年に至りては、社数増して九十余か社に及び、余勢遠く三河の国に及びける。 十八 三河国報徳社起原の事 さてまた三河国報徳社起原は如何にと云ふに南設楽郡下吉田村に田中伊平治と云ふ人あり。此人遠江なる谷沢村狩宿村に親戚ありて何れも報徳社員たりしかば、伊平治氏は時々参会に出席して親しく先生の講話を聞きけるに誠に永安の良法なりければ、之を我が村にも行はんものと思ひ立ち、同志者に謀りしに忽ち数十人の賛成を得たりしかば、明治十四年八月三日田中氏方に先生を講じて参会を開きける。これぞ三河に於る報徳社の初めなりける。斯くて翌明治十五年十月三河国報徳本分社社則を制定し愛知県庁の許可を得受けける。ここに於て小田原社にてはさきに嚮(さ)きに遠譲社に貸付を為したる例によりて善種金百二十両を貸与しければ、此の国の仕法益益隆盛に赴むき新社増加し明治二十五年には十五か社にぞ及びける。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年04月30日 16時45分44秒
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