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2020年10月31日
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海野史物語

如仲天誾(じょちゅうてんぎん)は海野氏(信濃国小県郡海野荘(現在の長野県東御市本海野)を本貫地とした武家の氏族。)の一族で、貞治(ていじ)4年(1365)9月5日に生まれ、5歳の時に母を亡くし、9歳のときに伊那谷上(うわ)穂(ぶ)山(駒ヶ根市赤穂町白山天台宗光前寺)の恵(え)明(みょう)法師のもとで学んだ。『法華経』の「成物己来甚大久遠」という一節に疑いを持ち始め、密かに禅宗の寺を慕(した)って、上州の吉祥寺(群馬県利根郡川湯村臨済宗鎌倉建長寺派)大拙祖能公の門に入って髪を剃って僧侶となり、仏道の道を歩み始めたという。

 その後、越前(今の福井県)坂井郡金津町御簾(みず)尾(お)平田山龍沢寺(りゅうたくじ)を開山した梅山聞本(ばいざんもんぽん)(美濃の生まれ)を訪ねて厳しい禅宗の修行を極めた。応永10年(1403)に師の梅山は如仲に「この上は、深山幽谷に籠り草庵を結んで長養するがよい」と勧めた。

 龍沢寺を去って近江の国(今の滋賀県)に南下し琵琶湖の北辺・塩津の祝(のろい)山(現在の西浅井町祝山)に入って洞(どう)春(しゅう)庵(あん)をかまえて世間から離れて修行に専念すること3年に及んだという。
 そんな如仲天誾の徳風を聞いて、多くの学徒が、その元に集まった。そこで弟子の道空に修学を譲り、応永13年(1406)に、その東方の余呉湖の東約5㎞の丹生川菅並(現在の長浜市余呉町菅並)の山谷が中国五台山に似ているとして、寺を移建した。白山妙理権現より塩泉を施されたことから、塩谷山洞(どう)寿院(じゅいん)と号して開基した。

遠江(今の静岡県)周知郡飯田城主に山内対馬守崇信(たかのぶ)(法号崇信寺(そうしんじ)玉山道美)という地頭級の小領主がいた。遠く如仲の学徳を聞いて深く帰向し、応永8年(1401)崇信寺(同郡森町飯田)を開いて迎請(げいしょう)し開山した。

 如仲は、此処に閑静安住の地を見出したと思ったのも束の間で、多数人々が訪れるようになると三度も北方6㎞余の橘谷(遠州一宮の神)の奥衾谷川の水源近い地に、応永18年(1411)橘(きっ)谷山(こくざん)大洞院(だいどういん)を開創し、開山には梅山を第一世と仰ぎ、自らは二世となった。

伝承によれば、院内の地を一時の庵室(あんしつ)とした如仲は、山内氏の外護により崇信寺を開いたという。 この場所は現在開発されてその跡に「如仲庵跡」の石碑を残すのみである。応永28年(1421)2月には総持寺(そうじじ)の40世となっている。

 その後如仲は、正長元年(1428)に梵鐘を鋳造しているが、これを鋳造した鋳物師(いもじ)は一宮庄内、特に天宮(あまのみや)神社の周辺に移住して、太田川の川隈等に堆積する砂鉄を利用していた一族であった。梵鐘以下の寺院用鉄製仏具・朝廷や足利将軍に献納する調度品の外、色々な民需品を鋳造し、遠く近畿地方まで隊商を組織し全国的に売り捌(さば)いていた。 
 越前の平田山龍沢寺では如仲の師、梅山がなくなった後、住持(じゅうじ)が14年間も居なかった。檀家の人達は如仲天誾をはるばる遠州(今の静岡県)まで訪ねて龍沢寺の住持となって欲しいと懇願した。永享2年(1430)4月、如仲は檀家の人々の熱意に応えて龍沢寺の第六世となった。

 廃(すた)れていた寺の建物を直すなど、梅山大和尚の教えを良く受け継いで龍沢寺の復興に尽くしたので、後の世になり平田山龍沢寺中興の祖と言われている。
 龍沢寺に住持して8年、寺の復興も進んだので、永享10年(1438)寺を去って再び近江の洞寿院へ帰った。晩年には加賀の仏陀寺(ぶつだじ)にも住持した。如仲天誾は、永享12年(1440)2月4日に亡くなった。享年75歳であった。今も墓は龍沢寺にある。

曹洞宗寺数は、17,549カ寺、永平寺末2,027カ寺・総持寺末15,522カ寺の中で中通幻派8,931カ寺・大源派4,358カ寺の中、如仲派3,200余カ寺の末寺をもっている。その門末寺に火防守衛の総本山、秋葉総本殿万松山可睡(かすい)斎(さい)(静岡県袋井市久能)がある。
 可睡斎は、曹洞宗屈指の名刹、およそ600年前の応永8年(1401)に如仲天誾禅師が、開山で東陽軒と名付けたのがその始まりである。
 11代仙麟等膳和尚は、若い時、駿河の慈非尾村増善寺で修行をしていた。そのころ家康公(竹千代丸)が今川義元の質子になっていたのを、ご覧になって、「この若者は他日、必ず立派な方になる」と見込まれ、日夜人格の指導に専念。ある夜に、密かに竹千代丸を葛(つづ)籠(ら)に隠し、その後、清水から船に乗せ勢州篠島に渡り、暫く隠れていたが、遂に三州岡崎城につれ戻した。
 その後家康公は次第に出世し浜松城主となるや、等膳和尚を招いて夜更けまで、旧事を語っていた席上でコクリコクリと無心に居眠りをする和尚を見て家康公は、にこりとせられ「和尚我を見ること愛児の如し、故に安心して眠る。我、その親密の情を喜ぶ。和尚睡如し」と言って、それ以来「可睡斎」と愛称せられ、後に寺号も「可睡斎」と改めた。
 また家康の心を安らかにした旧恩に報いて、天正11年(1583)10月、駿河・遠州・三河の4カ国の総録司という取締りの職をあたえ10万石の礼をもって待遇された。
 以来、歴代の住職は、高僧が相次ぎ、天下の「お可睡様」と呼ばれるにおよび、名実とも東海道における禅の大道場としての面目を充実している。





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最終更新日  2020年10月31日 17時44分28秒



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