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カテゴリ:徳島県技師鳥居信平
台湾に地下ダムをつくった日本人技師鳥居信平の著述集を出版したい
残り 3日 の表示が出ました。 2020年12月12日からクラウドファンディング(CF)に初めてチャレンジして 多くの学びがありました。 このコロナの時代、非対面、非接触式のCFは多くのメリットがあります。 このプロジェクトを通じて新たな出会いがあり、新しい協働者もあらわれました。 未来につなぐ絆も生まれました。 CFは 現代の ひとつの 一座建立(こんりゅう)の場です。 室町時代、茶の湯 や 連歌・俳諧を通して 一座建立 の場ができたように CF や zOOM というデジタル時代に即した媒体を通じて 一座建立の場ができ 未来の 後の世代へと 良きもの を残す可能性があることを 今回のプロジェクトを通じて学びました。 ご協力いただいた方々に深く感謝申し上げます。 ☆台湾製糖(株)『台湾製糖株式会社史』(1939.09)をみると 大正元年(1912)9月16日 猛烈なる暴風雨襲来し、蔗園大被害を蒙りその他建設物も甚しき損害を受く 第十三年度 橋仔頭第二工場は原料不足のため今期作業を休止す ・台風の被害で台湾のさとうきびは壊滅的な被害を受けた。 このことが科学的な育苗と計画的な灌漑による大規模耕作によってサトウキビ栽培を復興させようということにつながり、当時徳島県農業技師だった鳥居信平を台湾に招聘することとなる。 大正10年(1921)5月15日 二峰圳灌漑工事に着手す 5月15日 万隆農場の開墾に着手す ・鳥居信平が1914年台湾にわたって7年後二峰圳灌漑工事と万隆農場の開墾に着手する。 大正11年(1922)6月 二峰圳灌漑工事中の蕃地内水源及び導水路工事完成す ・着手後翌年には地下ダムと導水路工事が完成する。 11月 是月 二峰圳灌漑第二期工事は支障なく進捗し、万隆農場方面に於ける各水路は本月末より通水を開始す ・1年6か月の工期で万隆農場への通水が実現し、100年たった現在でも現地で恵みの水として感謝されている。2022年、来年11月がちょうど100年とは「技師鳥居信平著述集」はまるでみはらかったようにこの世に出現する(^^) 大正12年(1923)5月 是月 二峰圳灌漑工事中、第二期工事たる全灌漑水路及び附属堤防工事並に排水工事等完成す 大正13年(1924)5月5日 リキリキ灌漑水源並に導水路千八百十間の工事大体完成せるを以て、試験通水の結果予期の如き好成績を得たり 大正15年(1926)2月11日 嘉南大圳烏山頭堰堤起工式挙行せらる ・八田與一の事業は二峰圳ダム完成後5年後に事業に着手する。 2月 是月 大响営農場灌漑工事竣成す 昭和2年(1927)4月20日 山本悌二郎、農林大臣に親任せられたるため、当社取締役社長を辞任す 4月28日 第三十七回定時株主総会を東京市麹町区有楽町一丁目一番地生命保険会社協会に於て開催す(株主配当年一割二分) 専務取締役武智直道、社長に就任す 昭和3年(1928)11月16日 草鹿砥祐吉、多年殖産興業に尽瘁したる功労により、川村台湾総督より銀杯を授与せらる 11月17日 専務取締役、平山寅次郎藍綬褒章を下賜せらる 昭和4年(1929)5月 是月 高雄州岡山郡楠梓庄営看天田に於て「スチームプラウ」鋤起し蔗作誘導試作田経営を当社にて誘導実施す 7月24日 嘉南大圳工事進捗し、灌漑面積十三万六千五百九十四甲に建す 昭和5年(1930)4月25日 嘉南大圳竣功式挙行せらる 昭和9年(1934)10月29日 第五十二回定時株主総会を東京市麹町区丸ノ内三丁目四番地帝国鉄道協会に於て開催、取締役二名、監査役一名任期満了に付改選の結果、取締役に朝吹常吉(重任)鳥居信平(新任)の両名、監査役に城戸崎広三(新任)当選就任し、退任監査役神代貞三に慰労金贈呈の件を議決す(株主配当年一割) 昭和12年(1937)10月9日 取締役鳥居信平、常務取締役に就任す ・ 鳥居が1914年に台湾にわたって23年後台湾製糖の役員となる。 12月14日 前社長山本悌二郎薨去 12月23日 顧問平山寅次郎逝去 昭和13年(1938)10月28日 取締役鳥居信平は会社代表取締役及び常務取締役を辞任す ・眼疾のため「会社代表取締役及び常務取締役を辞任す」 ある意味終戦の混乱にはまきこまれなくてよかったのかもしれない。 その後、鳥居は終戦後、台湾製糖から帰国者のため尽力することとなる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年02月25日 07時25分09秒
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