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カテゴリ:遠州の報徳運動
「翁の遺徳・福山先生一代記」の年表整理を始める。その準備
松島授三郎 天保7年(1836)静岡県掛川市掛川町に生まれる。父は加藤武左衛門で授三郎はその四男。 天保11年5歳の時、遠州豊田郡羽鳥村(現在浜松市東区豊町)の人、松島藤右衛門の養子となる。 安政三年正月(1856)授三郎21歳の時、安居院兄弟が浜松下石田の神谷與平治方を訪れ、報徳の道を講じつつあると伝え聞き、授三郎は神谷家を訪問し始めて安居院、浅田両先生に師事し、報徳の門に入る。 明治元年(1868)天竜川の堤防が決潰すると、下石田村神谷與平治と相談し、荒蕪地を開墾 明治8年中引佐郡伊平村に移る。 明治15年9月西遠農学社創立 明治18年7月天竜川が決潰し豊田郡・長上郡下浸水の際、農学社員は各村の残苗二万四千余把を被害民に贈って、その窮を救った 明治19年西遠農学社本館を設立 岳陽名士伝 平民農 引佐郡 伊平村伊平 769ページ(423) 松島授三郎君の伝 君、遠江国豊田郡羽鳥村に生る。明治8年中引佐郡伊平村に移り、薬舗を以て業とす。君、常に大志を抱き、目前の小利を鍿銖(ししゅ)の間に争うを欲せず。明治12年中同村に博徒横行し良民を強ひ誘いて、己の伴侶に入れんとす。闔村(こうそん)の民、相率いて之に赴き、殆ど不良者の巣窟たらんとす。戸長山本氏等大いに之をに憂い、救済の策を君に詢(はか)る。君、従容として曰く、夫れ民を治むる、あたかも水を治むるの如きのみ。速やかに功を奏せんと欲せば、かえって破るるの憂いあり。まず徐(おもむろ)に之れを処するの策を講ずべしと、縷々その法を陳す。人皆な高論に服す。のち郷民を誘導する、一に君の識に従い、之が措置を託す。之によりて野末某とはかり一社を創立し、名付けて農学誠報社という。野末氏社長たり。専ら農桑を勧め、道徳を講じ、風俗の淳厚を謀るを以て目的とす。拮据(きっきょ:忙しく働く事)勉励数年ののち、闔村百五十余戸騙詐(へんさ:かたりだます)争罪の障りなく敦厚の俗、比隣に聞こゆ。ああ、この際に当り氏の救済策なかりせば一郷の否運実に言うに忍びざるに至りしならん。のち明治14年9月静岡県令大迫氏、誠報社の主意を嘉(よみ)し、特に金円を賜う。君常に曰く、人民の怠惰に流るる、救済せざるべからず。農桑の萎靡に陥る、振起せざるべからず。人心日に危うく、道誼月に微なるは、振って回復せざるべからず。今や社会の表面頓に一転をなし、欧米の文物徒に皮想に入り、侈靡安逸の風をなす。君深くその因りて起る所のものを察し、道徳仁義の素を注入し頻りに宿弊の改良を諭して同15年9月に至り、率先して西遠農学社を創立し農学の研究をなし、かたわら道徳の学を講じ、又自邸に夜学場を起し、学生数十名を教授す。書籍器具より薪炭灯火の資等一に君の自ら弁ずる所なりという。初め君の西遠農学社を起すや、賛成者と共に四方を奔走して、会員を募る。到るところ、続々入社する者あり。遂に千有余名に達す。示来入社を乞う者、日一日に増加す。ここにおいて更に奥山・気賀の二か所に支社を設立し、連月一回常会を開き、又各地有志家の請いに応じ、社員と共に農談をなし、ほとんど寧日なきに至る。今や君の説を聞かんと欲する者、駿遠二三国の大半にわたる。その農談を開始するに当りてや、来会する者七八百名の多きに至る。一回は一回より多く、県下を風靡して隣県に及ぼすもののごとし。是れ他なし。本社組織の宜しきを得ると、その実効の赫々顕著なるによるといえども、君の忍耐率先の功一にこれに居るといわざるべからず。 (略) 君安政三年中相模の人、安居院某及び浅田某について報徳の道を講ず。のち浅田氏去り、安居院没す。これにおいて頻りに先覚者の門をたたき、その蘊奥を究むるに汲々たり。今や君自らこれが拡張を任じ、夙に古今の実理に確実動かざるを以て自論とす。 〇松島授三郎(明治三十一年没、六十三歳)、豊田郡羽鳥村の人。明治元年(一八六八)天竜川の堤防が決潰すると、下石田村神谷与平治と相談し、荒蕪地をよく開墾した。【十五年】八年引佐郡(いなさぐん)伊平村に移り、十二年、野末八郎を社長とする農学誠報社を設け村民の風俗の矯正に力を尽したが、十五年居村に西遠農学社を創立、夜学部を設け、自弁で農学の研磨を主とし、かたわら道学を講じたが、入社を乞うもの千余名に達したので、気賀、奥山に支社を設けた。十九年西遠農学社本館を設立、その説を聞くものも次第に増し、遠州において七郡、三州において二郡に及んだ。三遠農学社と改名、社員の数三千余名に達したという。西遠農学社が明治十八年十一月四日呉松村鹿島神社で催した農談会は、出席者二百余名、松島授三郎の社則朗読、神谷力伝の貧富図解、松島吉平の救済策などの演説があって懇親会に移り「満場沸くがごとく夜十一時散会した」という(『静岡大務新聞』)。明治十八年七月天竜川がまた決潰し豊田郡・長上郡下浸水の際、農学社員は各村の残苗二万四千余把を被害民に贈って、その窮を救った(『嶽陽名士伝』『静岡県人物誌』『引佐麁玉有功者列伝』)。 〇松島授三郎小伝(「報徳」より) 松島授三郎は至誠軒練精と号して静岡県の西部地区における三遠農学社長として頗る功績のあった篤志家である。而して在世中は東海道で屈指の老農として雄名をはせ、かつ報徳実践の達人としてその徳風は永く今日に遺芳を伝えている。 授三郎は天保七年(1836年)静岡県掛川市掛川町に呱々の声をあげた。父は加藤武左衛門といって授三郎はその四男である。 授三郎は天保十一年五歳の時、遠州豊田郡羽鳥村(現在浜松市東区豊町)の人、松島藤右衛門の養子となって、その家に養われた。 松島家は代々「薬舗」を業としていて、そのかたわら農業をいとなんでいたのだが、嘉永三年十五歳の年に父の藤右衛門が過って木から墜落してついに半身不随の身となってしまった。 かくして父藤右衛門はその後十二年にわたって起居の自由を失うに至った。その当時授三郎は若年であったけれども、意を決して父に代わって一家経営にあたり、風雨寒暑をいとわず専ら農耕に力をいたし、かたわら家業の薬舗のためにつとめた。 然るに安政三年正月(1856年)授三郎二十一歳の時、遠州への報徳伝道の先達である安居院義道先生兄弟がちょうど浜松在、下石田の神谷與平治方を訪れ、報徳の道を講じつつあることを伝え聞いて、授三郎はすなわち神谷家を訪問して、神谷さんに紹介してもらって、始めて安居院、浅田両先生に師事し、報徳の門に入り、深く心を傾けてこれをきわめ、つぶさに興国安民の良法を学び、得るところが多かった。 その後浅田有信先生は伊勢に歿し、ついで文久三年(1863年)安居院先生もまた浜松市において歿したので、その後は掛川市成滝の平岩佐兵衛や報徳教師荒木由蔵などに師事して、よく報徳の道を研究すること、前後十八年に及び、大いに悟るところがあり、ついに報徳と農業の実践を己の任とするに至った。 ここにおいて松島授三郎の説くところは、常に実理によってこれを経験に徹し、これを古今に鑑みて、確実にして動かすべからざるものをとって論ずる故に、授三郎が一度口を開けば、架空の妄説を唱えるものをして、ほとんど愧死(きし)せしめるに足るものがあった。 明治元年(1868年)授三郎三十三歳のころ、霖雨が降り続いて、居村の東を流れているところの大河である天竜川の堤防がしきりに決壊して、授三郎の居村をはじめ、付近一帯に洪水が氾濫して、被害は数十か村に及んだ。 このためいたるところ、良田が変じて石河原となり、非常な災害となってしまった。なかでも中善地、羽鳥、石原などの諸村の被害が最も甚だしく、特に石原には耕すべき少しの土地を余しておらず、ついに食うにその日の食物なき状態にまで立ちいたった。 石原の里正(村長)を小栗清九郎といったが、生活の道を失った多くの村人は大挙して小栗方に押し寄せて泣き叫んで憐れみを乞い、救助を求める人たちが門前に群がった。 小栗はこの災害に遭遇してほとんどなすところをしらず、施すにその術がなかた。この時、小栗は一案が胸に浮かんで、走って隣村の羽鳥村に赴き、授三郎に救済の方途を求めた。 授三郎は「乞う、君の余財一百金をなげうってください。私はこれをもって、彼ら村の人たちに仕事につかせる事ができるであろう。」と小栗に言った。 「君の言うことはまことによろしいが、ただ僅かに一百円の金をもって、石原の民に与えるとしたところが、一戸わずかに二円に当たるに過ぎないのではあるまいか。このようにしてこんなに多数の人命を救うことが果たして可能であるならば甚だ幸いである。果たしてどうであるか、私は僅かに一百円の金を惜しむものではないが、ただ憂えるところはこのような少額の金子で多数の村人の飢えと凍えとを救うことは果たしてできるや否や、それのみを憂えるものである。」 と小栗は言って憂慮の色が深かった。 ここにおいて授三郎は笑って答えるに 「私にはおのずから、策がある。君はこれを心配しないでほしい。」 ここにおいて、授三郎は隣村の下石田の報徳家である神谷與平治を訪問して協議し、再び石原におもむいて、村人を集めて対策を語った。 松島「諸君、今やご承知のごとく極寒に向かう時節であって、老人や子供では野良で仕事に従事することは到底できないので仕方がないが、ただ壮年血気で働き得る諸君はどうぞ私どものなすところに見習ってください」と一同を鼓舞激励した。 こう言い終わってすぐに授三郎と神谷久太郎とは自らもっこをにない、水害のため石河原となった荒地復興の作業に着手した。さすがに報徳先生安居院の指導を肝に銘じた両雄の獅子奮迅の有様はまことに現地をみるがごとき感があるのであるまいか。 このようにして多数の村人が砂利を取り除く、もっこをかつぐ、雄々しい作業ぶりが目に見えるようである。 『引佐麁玉有功者列伝』松嶋授三郎伝 「明治元年数月雨が続き天竜川の堤防決壊し数十か村に氾濫し田圃家屋を流亡す。豊田郡中善地羽鳥石原の諸村その害甚だし。石原村の如きは耕すに地なく食うに食物なく活路を失する者、全村中ほぼ半に居る。皆な里正小栗清九郎の門に号泣し哀れみを乞う。里正これを松嶋氏に謀る。氏曰く「乞う一百金を余に貸せ。余これを以て窮民をして業に就くを得せしめん」と。里正曰く「一百金を以て今多くの民命を救うを得ば、我れ何ぞこれを惜しまん。然りと雖もこれを窮民に分配すれば僅かに一二両に過ぎず。何を以てかその凍え飢えを救うを得んや」。氏笑いて曰く「我に策あり。憂えるなかれ」と。下石田村の神谷與平次とはかり、窮民を集めて言う。「時まさに寒し。老幼は業を郊野に執り難し。ああ壮者よ、今この窮に逢う、以て非常の勉励すべし。以て非常の艱苦を忍ぶべし。我いま衆のため一策あり。わが為す所にならい決して背くなかれ」。よって衆を鼓舞し自らもっこをにない、水害に罹る荒蕪地起返しに従事し、衆と艱苦を共にし、終日安んぜず、然してその得る所の賃銭を以て各々その家族を養わしむ。なお足らざる者は里正に乞うて米麦を与う。この如くすること同年12月より翌年4月に至り、麦の熟するに逢う。遂に数十人の窮を救うを得たり。 明治18年7月、風雨暴烈連旬にわたり天竜川の堤防決壊し豊田郡西部及び長上郡の村落は洋々とし海門と通ずるに至れり。時これ田植えに際し早き者はすでにし遅き者は未だし。旬余水減ずと雖も稲の苗腐敗し生育の状なし。氏曰く「ああ緩急相救うは人生の通義なり。況や我が輩身心を農業にまかす者にして傍観する時ならんや」。名倉藤三郎・早戸仙次郎・井村又三郎等及び西遠農学社社員に謀り東奔西走昼夜の別なくようやくにして各戸に就てその残苗を集め、二万四千八百有余把を得たり。直ちにこれを被害村落に贈りてその窮を救えり。 氏の人となり、勇壮活発、好んで人の嘉言善行を挙げ、道義を講じ、殖産興業を談ず。その談論するにあたりてや雄弁快舌、聞く者感嘆せざるなし。然れども人あり、その経歴する処を問えば笑いて答えず。強いて問えば我某年、某の家政頽廃に就かんとするを見てこれを挽回せんと欲しかえって失敗せり。我れ羽鳥村に在りし時、全村に関せし訴訟あり。総代に選ばれ中泉県令の庁に到り大いに悟る所あり。遂に総代の任を辞し、以来訴訟の事に関わらず等の数事を以てするのみ。 安政三年の頃安居院庄七・浅田勇次郎が下石田村神谷與平次の求めに応じ報徳の教えを講ずるや、氏は神谷氏に紹介を乞い両氏の門に入る。時に21歳なり。両氏没する後、同門先覚の人に就き奥義を究む。自任し務める所は報徳の道と農桑とを世に拡張せんとするにあり。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月27日 17時14分49秒
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