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カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話
報徳日めくりカレンダー(発行 報徳学園報徳教育部)
ただ恐るべきは 今日唯今なり 「二宮翁塔沢説話」 「今日唯今の生活を空しくする人間は、亡びの道を急ぐのである。」 大学 古之欲明明徳於天下者、先治其國。欲治其國者、先齊其家。欲齊其家者、先脩其身。欲脩其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物。 04 古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、まずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、まずその家を斉(ととの)う。その家を斉(ととの)えんと欲する者は、まずその身を修む。その身を修めんと欲する者は、まずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、まずその意を誠(まこと)にす。その意を誠にせんと欲する者は、まずその知を致す。知を致すは物に格(いた)るに在り。 (二宮翁夜話巻の3) 【57】翁曰く、人の神魂に就きて、生ずる心を真心と云ふ、則ち道心なり、身体に就きて生ずるを私心と云ふ、則ち人心なり、人心は譬へば、田畑に生ずる莠草(はぐさ)の如し、勤めて耘(くさぎ)り去るべし、然(しか)せざれば、作物を害するが如く、道心を荒す物なり、勤めて私心の草を耘り、米麦を培養するが如く、工夫を用ひ、仁義礼智の徳性を養ひ育つ可し、是身を修め家を斉ふるの勤めなり。 (訳)尊徳先生はおっしゃった。人の神魂について、生ずる心を真心という。すなわち道心である。人の身体について生ずる心を私心という。すなわち人心である。人心はたとえば、田畑に生ずる草のようなものだ。勤めて草刈して除かなければならない。そうでなければ、作物を害するように、道心を荒してしまう。勤めて私心の草を草取りして、米や麦を培養するように、工夫を用いて、仁義礼智の徳性を養って育てるがよい。これを身を修め、家を斉える勤めである。 (二宮翁夜話巻の3) 【30】翁曰く、世人皆、聖人は無欲と思へども然らず、其の実は大欲にして、其の大は正大なり、賢人之に次ぎ、君子之に次ぐ、凡夫の如きは、小欲の尤も小なる物なり、夫れ学問は此の小欲を正大に導くの術を云ふ、大欲とは何ぞ、万民の衣食住を充足せしめ、人身(じんしん)に大福を集めん事を欲するなり、其の方、国を開き物を開き、国家を経綸(けいりん)し、衆庶(しゆうしよ)を済救(さいきう)するにあり、故に聖人の道を推し窮むる時は、国家を経綸(けいりん)して、社会の幸福を増進するにあり、大学中庸等に其の意明かに見ゆ、其の欲する処豈(あに)に正大ならずや、能くおもふべし。 (訳)尊徳先生はおっしゃった。世の人は皆、聖人は無欲と思っているがそうではない。実際は大欲であって、その大は正大である。賢人がこれに次ぎ、君子は賢人に次ぐ。凡夫のごときは、小欲のもっとも小なるものである。学問というものは、この小欲を正大に導く方法をいうのだ。大欲とは何か。万民の衣・食・住を充足させ、人身に大福を集める事を欲するのである。その方法は、国を開いて物を開き、国家を経営し、人民を救い助けることにある。だから聖人の道を推し窮める時は、国家を経営して、社会の幸福を増進するのにあるのだ。大学・中庸等にその意味が明かに見えている。その欲するところがどうして正大でなくてよかろうか。よく思うがよい。 【31】門人某居眠りの癖あり、翁曰く、人の性は仁義礼智なり、下愚といへども、此の性有らざる事なしとあり、されば汝等が如きも必ず此の性あれば、智も無かる可からず、然るを無智なるは磨かざるが故なれば、先づ道理の片端にても、弁へたし覚えたしと、願ふ心を起(おこ)すべし、之を願を立つると云ふ、此の願(ねがひ)立つ時は、人の咄(はなし)を聞きて居眠りは出でざるべし、夫れ仁義礼智を家に譬(たと)ふれば、仁は棟(むなぎ)、義は梁(はり)なり、礼は柱なり、智は土台なり、されば家の講釈をするには、棟(むなぎ)梁(はり)柱・土台と云ふもよし、家を作るには、先づ土台を据(す)え柱を立て梁(はり)を組んで棟(むなぎ)を上(あげ)るが如く、講釈のみ為すには、仁義礼智と云ふべし、之を行ふには、智礼義仁と次第して、先づ智を磨き礼を行ひ義を踏み仁に進むべし、故に大学には、智を致すを初歩と為り、夫れ瓦(かはら)は磨(みが)けども玉(たま)にはならず、されど幾分の光を生じ且(か)つ滑(なめ)らかにはなる、是れ学びの徳なり、又無智の者は能く心掛けて、馬鹿なる事を為さぬ様にすべし、生れ付馬鹿なりとも、馬鹿なる事をさへせざれば馬鹿にはあらず、智者たりとも、馬鹿なる事をすれば馬鹿なるべし。 (訳)ある門人が居眠りの癖があった。尊徳先生がおっしゃった。人の性は仁・義・礼・智である。非常に愚かであっても、この性のない事はない。そうであれば、あなた方も必ずこの性があり、智が無いことはない。そうであるのに無智であるのは磨かないからである。まず道理の片はしでも、わきまえたい、覚えたいと、願う心を起こさなければならない。これを願を立てるという。この願を立てる時は、人の話を聞いて居眠りはできないであろう。仁・義・礼・智を家にたとえるならば、仁は棟木であり、義ははりであり、礼は柱であり、智は土台である。家を説明するには、棟木・はり・柱・土台というのがよい。家を作るには、まず土台を据えて柱を立て、はりを組んで棟木を上げるようにし、説明するときは、仁・義・礼・智というのだ。これを実行するには、智・礼・義・仁と次第に行うのであり、まず智を磨いて礼を行い義を踏んで仁に進むべきである。だから大学には、智を致すのを初歩とするとある。瓦(かはら)は磨いても玉にはならない。しかし幾分かの光を生じ、かつ滑らかにはなる。これが学びの徳である。また無智の者はよく心がけて、馬鹿なる事を行わないようにするべきである。生れつき馬鹿であっても、馬鹿な事をさえしなければ馬鹿ではない。智者であっても、馬鹿なる事をすれば馬鹿といえる。 (二宮翁夜話続編) 【32】某藩(ぼうはん)の重臣某氏(ぼうし)、藩の財政の方法を問ふ。翁(をう)曰く、爰(ここ)に十万石の諸侯あり、之(これ)を木に譬(たと)ふれば、百姓(ひやくしやう)は土際(つちぎは)より木にある根の如(ごと)し、幹(みき)と枝葉(えだは)は藩中の如し。然(さ)れば十万石と云(い)ふ時は、其(そ)の領中(りやうちゆう)一円(いちえん)神主僧侶も乞食(こじき)も皆此(こ)の中の物なり。 此(こ)の十万石を四公六民(しこうろくみん)とする時は、藩が四分(ぶ)民(たみ)が六分(ぶ)なり。然(しか)るに何方(いづれ)より頼談(らいだん)せらるとも、皆藩の財政のみを改革せんとせられ、領中の事に及ばるるはなし。古語に「其(そ)の元(もと)乱れ末(すゑ)治まる者はあらず」とあり。其(そ)の元(もと)を捨て置いて、其(そ)の末(すゑ)のみを挙(あ)げんとするも、順序違(たが)へば、労するとも功無かるべし。真(しん)に藩の疲弊(ひへい)を救はんとならば、民政(みんせい)も共(とも)に改革せらるべし。さ無き時は、木の根を捨て置いて枝葉(えだは)に肥(こやし)を施すが如(ごと)し。是(こ)れ卿(きみ)が尤(もつと)も心を用ひらるべき所にて、卿(きみ)が職務なり、帰藩(きはん)の上(うへ)能々(よくよく)勘考(かんかう)せらるべしと、某氏(ぼうし)感服感服(かんぷくかんぷく)と云ひて去れり。 (訳)ある藩の重臣が、藩の財政の方法を尊徳先生に問うた。尊徳先生はおっしゃった。ここに10万石の諸侯があるとします。これを木にたとえれば、百姓は土より下にある根のようなもので、幹と枝葉は藩の武士のようなものです。そうであれば10万石というときは、その領中一円の神主や僧侶、乞食も皆この中のものです。この10万石を4公6民とする時は、藩が4分、民が6分です。それなのにどこの藩も私に相談に来られるときは、皆、藩の財政だけを改革しようとされて、領中の庶民の事に及ぶことがありません。古語に「その元乱れ末治まる者はあらず」とあります。その元を捨ておいて、その末だけを挙げようとしても、順序が違えば、苦労しても効果は無いことでしょう。本当に藩の疲弊しているのを救おうというのであれば、民政もともに改革されるべきです。そうで無いときは、木の根を捨てておいて枝葉に肥料を施すようなものです。これがあなたが最も心を用いられるべきところであって、あなたの職務です。帰藩の上はよくよく考えてみてください、重臣は大変感服いたしましたと言って帰っていった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年07月17日 07時05分37秒
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