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2022年04月29日
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カテゴリ:結跏趺坐
2022年4月29日

報徳記を読む 現代語訳 第一集 報徳記巻の1 第四 資料集

 NINOMIYA SONTOK - A PEASANT SAINT

III-THE TEST OF HIS ABILITY
His fame daily increasing, his worth was recognized by the Lord of Odawara, whose subject he was, and who as the then Prime-Minister of the Tycoon's Government, wielded an influence second to none in the Empire. So valuable a subject was not to be left buried in the obscurity of village life; but in the society of his time, when class-distinctions were so strong, the promotion of a peasant to any position of influence was possible only when he gave unmistakable evidence of extraordinary ability, enough to silence popular protest that was sure to be brought against any such infraction of regular social routine. The job that was selected for this purpose was of most disappointing nature to any but one of Sontok's indomitable patience. Among the feudal possessions of the Lord of Odawara were the three villages of Monoi, Yokota, and Tosho in the province of Shimotzuke, which, through the neglect of several generations, had gone into fearful desolation. The three villages once counted 450 families, and tendered as their annual feudal dues l0,000 bags (20,000 bushels) of rice to their rightful Lord. But now that wild Nature invaded their fields, and badgers and foxes shared habitations with men, the population numbered only one-third of what it had been, and 2,000 bags were the utmost that would be levied from the impoverished farmers. With poverty came moral degradation, and the once thrifty villages were now dens of gamblers. Their restoration was attempted several times; but neither money nor authority was of any avail when the villagers themselves were confirmed thieves and idlers.A more sanguine master might have determined upon the withdrawal of the entire population, and by the importation of new and more virtuous labor, might have begun to recover the fields left desolate by his indolent subjects.

But, these villages, if good for no purpose, just served the purpose which the Lord of Odawara had in view.
A man who could restore these villages to their original wealth and prosperity might be entrusted with the restoration of all deserted villages (of which there were a great many) in the country; and he who succeeded where all before him had failed might be brought before the public as their rightful leader, and be clothed with proper authority without fear of discontent from the titled classes. This was the job then which Sontok was prevailed upon by his master to undertake.
The peasant declined the honor upon the ground of his humble birth and his total inability for a work of so public a nature; - he a poor tiller of the soil, and the utmost he expected to accomplish in his life was the restoration of his own family-property, and that not by his ability, but by the inherited merits of his ancestors. For three long years the Lord insisted upon his demand from his subject, who as persistently maintained his modesty and request for peaceful domesticity under his own thatched roof. When, however, the importunities of his worthy superior were no longer to be resisted, Sontok asked for permission to carefully examine the situation of the villages he was to revive. Thither he went upon his own feet, a distance of 130 miles, and for months remained among the people, visiting them from house to house, and carefully watching their ways of living; made a close study of the nature of the soil, the extent of wilderness, drainage, possible means of irrigation, etc., and gathered all the data for making his full estimate for the possible restoration of the deserted

His report to the Lord of Odawara was most discouraging; but the case was not one to be wholly given up. "The art of love alone can restore peace and abundance to those poor people," said he in his report. "Grants in money, or release from taxes, will in no way help them in their distress. Indeed, one secret of their salvation lies in withdrawing all monetary help from them. Such help only induces avarice and indolence, and is a fruitful source of dissensions among the people. The wilderness must be opened by its own resources,and poverty must be made to rescue itself. Let my Lord be satisfied with the revenue that can be reasonably expected from his famished district" and expect no more from it. Should one tan*[ Tan is about one-fourth of an acre.]of such a held yield two bags of rice, one bag should go to the sustenance of the people, and the other to the fund for the opening-up of the rest of the wilderness.In this way alone was this our fruitful Nippon opened to cultivation in the days of the gods. All was wilderness then; and without any outside help, by their own efforts, with the land's own resources, they made fields, gardens, roads, and cities, as we see them now. Love, diligence, self-help, - in the strict enforcement of these virtues lies the hope of these villages; and I should not wonder, if, ten years from this date, with patient application of ourselves in the work with all sincerity, we bring them back to their original prosperity." Bold, reasonable, inexpensive plant! Who will not consent to such a plan? Seldom was such a scheme of restoration of villages ever proposed, making moral forces prominent factors in reforms of economic kind. It was the economic application of Faith.

《英文一六二ページに対応》
3 能力の試練
 彼の名声は日々に増し加わり、彼の真価は、彼の領主であり、当時、幕府の老中として全国に並ぶ者のない勢いをふるっていた小田原侯〔大久保忠真(ただざね)〕の認めるところとなった。このように大事な家来を片田舎に埋もれさせて置くべきではなかった。しかし階級差別の極めて強かった当時の社会にあっては、農民をある有力な地位に登用するということは、このような社会の規定の違反に対して、必ず世上にかもしだされるべき物議を沈黙させるに足るだけの異常な能力があることを、その人が間違いなく証拠立てた時にのみ、わずかに可能なことである。この目的のために選ばれた仕事は、尊徳のような不屈の忍耐を有する者でなければ、何人も失望しないでは得ないものであった。小田原侯の封地(ほうど)のうち、下野(しもつけ)の国に、物井(ものい)、横田、東沼の三村があった。数代にわたる怠慢によって、おそろしい荒廃に陥っていた所であった。三村はかつて戸数四五〇を数え、年貢米一万俵〔四千俵の誤り〕を領主に納めていた。しかしながら今や狼藉(ろうぜき)である「自然」は彼らの田野(でんや)に侵入し、あなぐま〔タヌキ〕とキツネとはその棲(すみ)かを人と共にするに及んで、人口は昔の時分の三分の一を数えるにすぎず、疲弊(ひへい)した農民から取り立てることのできるものはたかだか二千俵〔八百俵の誤り〕であった。貧乏とともに道徳的堕落が臨んで、かつて繁栄した村々は今は賭博者(とばくしゃ)の巣窟(そうくつ)であった。その復興はしばしば試みられた。しかし村民そのものが手に負えない盗人や怠惰者であっては、金銭も権力も何の効果はなかった。血気(けっき)にはやる領主であれば、この全人口に断固、立退きを命じ、より道徳的な新しい労働力を輸入して、怠惰な住民の荒廃に帰した田畑の復興を始めたかもしれない。

《英文一六三ページに対応》
しかし、これらの諸村は、たとえ何の役に立たない村であっても、ちょうど小田原侯の考えていた意図に役立ったのである。これらの諸村を元の富裕と繁栄とに回復することのできた人は、国内のすべての荒廃村(それは非常に多くあったが)の回復を委(ゆだ)ねられるべきであろう。そして彼以前のすべての人の失敗したところに成功した人は、それらの村の正当な指導者として人民の前に立たせられ、特権階級の不満を買うおそれなしに適当な権威を担わされるべきであろう。これが、当時、尊徳がその主君に引き受けることを説得された事業であった。
この百姓は、自分が卑(いや)しい生れであることと、自分はかくも公共的性質の仕事には全く無能力であることを理由に、その名誉を拒んだ。彼は一介の貧しい農夫である。彼が一生の間に成就しようとするところはたかだか自分の家産の回復であった。しかもそれは自分の才能によってではない、先祖の余慶によってである。三年の長い間、藩侯はその家来に自分の要求を主張してやまなかった。家来は、草ぶき屋根の下で平和な家庭生活をいとなみたいという彼の謙遜な願望を、固くとって譲らなかった。しかし、立派な主君の懇請にもはや抵抗できなくなるに及んで、尊徳は復興すべき諸村の状態を慎重に調査したいと許可を求めた。そこまで一三〇マイルの道程を徒歩で赴き、数ヶ月間人民のうちに留まり、家から家に彼らを訪問し、慎重に彼らの暮し方を注視し、土質、荒地の範囲、排水、灌漑可能の方法等について綿密な研究を行い、荒廃地域の復興はどのようにすれば可能かについて彼の完全な見積を作るため、あらゆる資料を収集した。

《英文一六四ページに対応》
彼の小田原侯への報告は、非常に悲観的なものだった。しかし事態は必ずしも全く絶望ではなかった。『仁術〔愛の術〕だけが、よくこのような窮民に平安と繁栄を復興することができる』と彼はその報告で言った。『金銭を与えて租税を免除することは、彼らの困窮を援助するみちではない。彼らに一金をも下されないことが、救済の秘訣である。援助はただ貪欲と無頼を招来させ、民の間に軋轢(あつれき)の源泉を生ぜさせるに過ぎない。荒蕪(こうぶ)を開くに荒蕪の力をもってし、衰貧を救うに衰貧の力をもってしなければならない。我が君は、この瘠(や)せた地から正当に求めることのできる収入をもって足るとし、それ以上期待されませんように。荒地一段に二俵の産米あれば、一俵をもって民の食となし、一俵をもって残余の荒蕪地の開田料となすべきです。ただこのようにしてのみ我が瑞穂(みずほ)の国は神代に開田された。その時はどこもすべて荒野であった。しかも異国から何の援助をからず、自分自身の努力により、土地そのものの資源をもって、今日見るような田畑、道路、町村を造ったのである。愛、勤勉、自助ーこれらの諸徳の厳格な励行に、これら諸村の希望が存するのである。そして今日より十年、我らが真心を尽し、忍耐もってこの事業に専念して、これら諸村を元の繁栄に再復させ得ることは、私の疑うことのできないところである』と。大胆なる、道理にかなった、安価な、計画であることよ!このような計画に同意しない者があろうか。道徳力を経済問題の諸改革における主要な要素とするこのような農村復興計画は、これまでほとんど提案されたことはない。それは「信仰」の経済的適用であった。

令和4年2月26日現在
「報徳記を読む」第一巻全ルビ付原文、現代語訳、参考資料 (2014年3月発行)
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第2集、第3集は絶版ですが、第1集は手持ちが少しありますので、読書会等で「報徳記」の原文を輪読されたい読書会等がありましたら、上記の公共図書館に寄贈し蔵書となっている本(「報徳記を読む」第1集)の奥付に連絡先のメールアドレスが載っていますので、ご連絡ください。

☆彡 広井勇の信念―生きている限りは仕事をする―
 広井勇の信念は「生きている限りは仕事をする。仕事ができなくなった時、その時が自分の死ぬ時である」であったという(「広井勇伝」p.77)。

  広井は、小樽港北防波堤築港の難工事にあたって、「使用するセメントは、特に浅野セメントに限る」と指名した。浅野総一郎はその関係上、視察のため、たびたび小樽に出向いては、越中屋に宿を取って、朝の六時頃から視察した。そこで見た広井について、
「現場監督の博士は、いつお見受けしても、早朝から既に合羽服に身を固めて、ご自身でセメントと砂と砂利とを調合し、水でこねておられる」と綴って「この博士なればこそ、この難工事も事なく運ばれるのだ」と感動した。広井は、横浜築港において、コンクリートが割れた事故について、問題はセメントの質にあったのではなく、セメントの製造過程がきちんと丁寧に行われていなかったからだと分析し、自らその施工過程に細心の注意を払ったのである。
広井は小樽の工事で浅野を顧みて繰り返し言った。「この難工事の全責任は自分に在る。もし何年か後にこの防波堤が崩壊すれば、それは私の責任である、と同時に浅野セメントの責任である。私たちの責任と信用はこの防波堤にかかっている。防波堤が割れれば自分も割れるが、浅野セメントも割れてしまうのである」と。広井は自らの責任を明言すると共に、施工業者も一体となった責任を求めたのである。
 浅野は広井の回顧談を口述しながら涙を浮かべた。「実に想起すれば博士は惜しんでも、なお余りある人物である。そうして性格的には覚悟のよい偉丈夫であった。ご不快のときにあっても、仕事だけは忘れずに続けておられた。そして常にいわれた。『仕事ができなくなれば死ぬほかはない。仕事のできなくなった時がすなわち自分の死ぬときである』と。晩年も、毎日のように『生きている間は仕事をする』と言われた。『社会の役に立たぬ体になったら、むしろ死んでしまいなさい』が博士の持論であった。」(p.159)


💛松坂大輔氏
2回1死一、二塁で1番・ストローから直球で三振を奪った場面に注目。
「試合を通して、初めてしっかり指に掛かった直球を投げられた場面だった。比較的早いイニングでいいボールを引き出せる。さすがだな、と」
「大谷投手くらいのレベルになれば、修正する引き出しをいくつも持っている。大谷投手の凄みを感じた試合だった」





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最終更新日  2022年04月29日 06時00分10秒



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