ヤマザクラや八重ザクラが咲き始めれば、まもなく仙台の桜の季節は終わる。年年歳歳、春がせわしい。花が好きで、増やしてしまった鉢植えの植え替えに追われる。体力の衰えは労働力の低下となり、やってもやっても(本人はそう思っている)終わらないのである。
しかし、よくしたもので、花の手入れの質と量が低下するにつれて枯死するものが増えてきて、少しずつ鉢数が減りつつある。そうした時の流れに逆らわなければ何とかなりそうな気もするのだが、そのためにはあの花、この花への執着を抑え込む必要があるのだが、これがなかなか………。
ずっと勾当台公園での集会が続いたが、今日の金デモは元鍛冶丁公園集合である。私の家からは一番近い集合場所なので、10分ほど時間が節約できる。公園に着いた頃から小雨が降り出した。急遽、屋根のあるステージに上がって集会は始まった。35人ほどの参加者だった。
久しぶりの元鍛冶丁公園。(2017/4/21 18:10~18:31)
マイクなしで始まった主催者挨拶の初めの部分は聞き取りにくかったが、たぶん放射性廃棄物の農地へのすき込みの作業のことだったと思う。薬局で売っている風邪予防に使うような簡単なマスクをした人が細分された放射性廃棄物をパラパラと撒いている作業に驚いたという。いったい放射線に関する知識があったうえでの作業なのか疑問だとして、作業する人の内部汚染は可能なかぎり避けるべきではないかと批判された。
仙台市役所前で今日の朝8:00~9:00、夕方16:45~17:45に行われた宮城県に一斉焼却を再考するよう求める署名と仙台市に女川原発再稼働に反対することを求める署名集めの活動の報告があった。
朝は10名、夕方は15名の参加で、正確な集約はまだだが一斉焼却反対の分は108筆の署名が得られたという。市役所前でのこうした署名活動は、おそらく放射線ばら撒きにひそかに反対している市役所職員を励ますことになっているだろうと話された。
さらに、一般焼却や農地へのすき込みなど、これから行政がやろうとしているのは薄く広く放射能をばらまくことになり、県民にとっては低線量被ばくの危険が増すことになる。そこで、「低線量被ばくによる健康障害」と題する学習講演会を6月17日(土)13:30~16:00にせんだいメディアテーク7Fで開催することにしたという案内があった。講師は、元放射線医学総合研究所主任研究官の医学博士、崎山比早子先生である。
韓国がホヤの輸入を止めていることを県知事は批判するが、その原因は日本政府の放射能汚染対策のいい加減さにあると批判するスピーチのあと、佐藤栄佐久前福島県知事の謎の収賄事件を描いたドキュメンタリー「『知事抹殺』の真実」が好評だったため、ゴールデンウイークの4月29日から5月5日まで桜井薬局セントラルホールで再上映されるという案内があった(上映時間は15:30~)。
ネットに「原発に反対する人のなかに放射線に関する疑似科学に引っかかる人が多くいる」という書き込みがあったことを紹介し、ある種の電解水が放射能を消すとか、EM(有用微生物群)が放射能で汚染された土壌を浄化するなどというニュースが流れることがあるが、物理的にはまったくありえない典型的な疑似科学であると話したのは私である。
放射線を恐れるあまりそのような詐欺・疑似科学・病理的科学に縋りつきたくなる心理に陥りやすいが、原発推進勢力の嘲笑の的になるばかりではなく、私たちの反原発の運動のためにもけっしていいことではないので、注意する必要があるだろう。
最後に、今日の昼、岩沼で行われた金デモに参加してきたという人が話された。15人の参加者だったし、こっちの金デモの参加者もけっして多くはないけれども、県内では仙台、岩沼、塩釜、大崎でもやっていて、全国を見ればじつにたくさんの場所で脱原発、反原発の行動が行われている。1か所での参加者が少なくても全国規模で見れば大勢の人が声を上げている、頑張りましょうと締めくくられた。
集会が終わって、デモが出発するころには雨はあがっていた。「やんでよかったですね」とお巡りさんが、代表の西さんに話しかけていた。
ここ2、3回ほど集会でスピーチをした。以前は、放射線や原子核のことなどを尋ねられれば答えるという程度の話しかしなかったが、じつのところ、毎回スピーチネタを一つか二つ用意している。誰もスピーチをする人がいなくて司会者が困っているときにでも時間つぶしができればと思っているのだ。
しかし、正直なところ、スピーチはしたくないのだ。人前が苦手で演説も苦手ということもあるが、職業上の性癖のせいでもある。職業人であったとき、学会発表や講演で話す内容は私のオリジナルでなければならない。誰もが知っていることを話すのは恥ずかしいことだし、新しい発見や論理を含まなければ話す価値がない。例外は学生への講義の場合だけである。教科書になっている知識なので、ある分野の人々ならだれでも知っている内容を話すことになる。学生にとっては知らない知識だというのがせめてもの救いだ。
脱原発の集会に参加する多くの人は原発のこと、放射線のことをよく知っている。そういう場所で似たような話題について話すのは気が引ける。「みんなが知っていることを話して偉そうに見えたらいやだなぁ」といつも思う。要するに、引っ込み思案なのだ。
今日は集会の時間が余ってるのに誰も手を上げないので、疑似科学のことを話したのだが、私の後に三人が手を挙げてスピーチをした。最初からそうしてくれれば私が話すことはなかったのにと、少しばかり力が抜けてしまった。
一番町の広瀬通り角にはものすごい数の若者が待ち合わせている。大学の新入生歓迎コンパの待ち合わせのように見える。歓迎会の会社員もいたのかもしれないがほとんど学生ふうで、目を丸くしてデモを見ている人もいて、それを見ているこちらもなんか楽しいのだった。
私はどちらかと言えば人が多いと引いてしまうたちで、東京の街を歩くとよく人酔いで調子を崩すことが多かった(退職後、東京歩きを趣味にしていくぶんましになったが)。しかし、デモ人には聴衆が多いと元気になる人が多い。この年なって気性が変わる望みはないけれども、どこかうらやましい。
デモが終わり、本屋を2軒ほど回ってから帰ろうと思ったが、諦めた。一昨日、用事があって街に出たとき、数軒の本屋を覗いてみた。どの本屋にも読みたい本があったが、そこそこ高価だったので安いカメラ技術の本を1冊だけ購入した。
「自分の小遣いなんだから読みたい本を買ったらいいのに」と妻に茶化されたが、じつはこの頃本を買うときはカードを使い、支払いは妻が管理する口座から支払われる。まだ気づいていないらしい。高価な本をまとめて買ったら気付かれそうなので我慢するのである。
それにしても、アメリカのカメラマンが書いたカメラ技術の本は「目から鱗」本だった。今日のデモ写真撮影にちょっとだけ取り入れてみた。写真の「物語性」を強調する技法だという。その言葉にも惹かれた。まあ、何かが良くなれば何かが悪くなるというのが凡人の常なのだが。