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山行・水行・書筺 (小野寺秀也)

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2018.05.11
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テーマ:街歩き(413)
カテゴリ:街歩き

 ちょっとすごいことになってきた。といっても、安倍政権崩壊の話でも原発廃炉の話でもなく、ただの私事である。この4月からある地域の役を引き受けたら、ずるずると6つほどの役が引っ付いてきた。役職指定というやつで、いろいろな地域組織の役が自動的に割り当てられるのである。
 年度初めには、そんな組織の総会が次々に開催される。あわててパソコンで名刺を作ったのだが、けっこう捌ける。職業人時代でもこんなに名刺を消費したことはない。もっとも、研究室に閉じこもっているばかりの私の職業は、名刺交換を必要とするようなものではなかったのだが……。
 これから先、どんな会合をどれだけさぼれるかという知識を獲得するために、今はどれもさぼらないで出席しているが、ほとんど形式的な集まりで、かなりつまらない。世間というものの構造がこういう形式で支えられているのだ、と無理やり思い込んで我慢している。
 しかし、ときおりご挨拶に伺いたいという電話があって閉口する。それほどの役ではないのに、世間は大袈裟なのである。たいていは断っているが、断りに失敗することもあって悩ましい。
 何よりも厳しいのは、妻の視線である。当初からそういう役を引き受けることに反対していた妻は、バタバタし始めた私を「それ見たことか」と眺めているのだ。私は義母の介護の下請け労働力と見なされているので、その労働時間を他のことに向けられるのを警戒しているらしい。介護には労働時間の裁量制というのはとうてい無理なのである。
 目下のところ忙しいと言うしかないが、いずれ効果的なさぼり方を学習するだろう。もう1ヶ月ほど辛抱すれば何とかなるだろうと思っている。そう信じて、朝から書類づくりのために張り付いていたパソコンデスクから立ち上がり、デモに出かけるのだ。




錦町公園から一番町へ。(2018/5/11 18:55~19:10)


 ゴールデンウィーク中の金曜日のデモは休みだった。今日は5月の1回目である。5月からは夏時間(午後6時30分から集会、7時からデモ)で、冬時間から30分繰り下げられる。
 時間に余裕があると高をくくっていたら、いつものように遅刻した。会場が錦町公園ということが考えに入っていなかった。錦町公園は、会場となる公園のうちでわが家から一番遠いのだ。それに、考え事をしながら歩いていて、途中まで別の公園に向かう道を歩いていたということもあって、錦町公園に着いたときには集会はほぼ終了しかかっていた(1枚目の写真の撮影時間は18:55なのである)。







一番町(1)。(2018/5/11 19:13~19:18)


 今日のデモの市民へのメッセージの一つは、次のような一文だった。​

​​
 先日、国は2045年の人口推計を発表しました。宮城県で最も人口が落ち込むと予想されているのが、女川町です。半分以下の約3000人にまで落ち込むと予想されています。
 原発が地域おこしに全くつながらなかったことが、誰の目にも明らかになったのではないでしょうか。
 原発の経済効果はまったくの一過性であり、決して町の発展につながりません。
 むしろ、事故の危険と背中合わせに生活をせざるをえないというマイナスの面がますます際立っています。
 みなさん、原発に頼らない地域の自立を、ともに目指していこうではありませんか!


 もちろん、女川町の人口減少の理由には東日本大震災の津波被害が大きく影響しているのは間違いない。しかし、原発がその復興に役立たないのは自明であるし、いまや原発事業、原子力産業そのものが急激な斜陽化の途上にあることもすっかり明らかになった。
 しかも、県や自治体が考えている事故時の避難対策が現実的ではなく、すでに原子力規制庁は避難時の放射線被曝は避けられないと判断している。不安にさいなまれながら住む故郷とはいかなるものか、私には容易に想像できないのだ。
 まもなく女川町の人口が3000人を下回るのだという。じつは、私が引き受けた地域の役というのは、町内会の会長である。私の住む町内には、ほぼ2000世帯が暮らしている。単身でアパートやマンションに住む学生が多い町だが、複数の家族がいる世帯数を考えれば3000人ほどの人口になるだろう。
 町内会長という役の忙しさに悩まされているその町の人口と、原発立地自治体である女川町の先行きの人口を重ね合わせながら、少し暗鬱な気分になりながらデモの街を歩いたのである。




一番町(2)。(2018/5/11 19:20~19:25)


 忙しくても本は読みたいのだが、大部の本に挑戦する気分はまったくない。かつて読んだ本を引っ張り出してきて、パラパラと拾い読みをする日が続いている。そんな本の中に、現在の日本の情況を描いているのではないかと切実に思う文章が見つかることがある。
 例えばこれは、50年近く前の1970年頃にハンナ・アーレントが書いた文章である。

​​
嘘をつく人は、一つひとつの虚偽をつくりだすことはいくらでもできるであろうが、主義としてずっと嘘をついてなお無事であるというのはできない相談であることには気がつくだろう。このことは、全体主義の実験や全体主義支配者が嘘の力――たとえば、現在の「政治路線」に過去を合わせるために繰り返し歴史を書きかえる能力や自分のイデオロギーに一致しないデータを抹殺する能力――に寄せるぞっとするような信頼から学ぶことのできる教訓である。〔………〕
 そのような実験が暴力手段をもつ人びとによって行われるときわめて恐ろしい結果を招くが、欺瞞がいつまでもつづくということはない。そこから先では嘘が逆効果になるような点が必ずやつてくるのである。この点に到達するのは、噓を聞かされる聴衆が、生き残れるためには真理と虚偽を区別する線をまったく無視せざるをえなくなったときである。あたかも信じているかのように行動することに生命がかかっているとなれば、真理も虚偽ももはやどうでもいいことになる。信じることのできる真理が公的生活からまったく姿を消してしまい、それとともに、変転してやまない人間の事柄における主要な安定化要因も消滅してしまう。 [1] ​​


 まるで安倍自公政権がやっている欺瞞政治について述べられているような印象を受ける。そして、その欺瞞政治はいずれ破綻するというのだが、政治体制だけが破綻するのではない。
 アーレントが述べているのは、全体主義国家としてナチス・ドイツであり、スターリンに象徴される全体主義的社会主義国家のことである。その暴力的な欺瞞の破綻は政治体制の終焉をもたらすが、社会全体の悲劇的な破綻を伴っていた。社会の「主要な安定化要因も消滅」してしまうのである。
 それは困る。安倍晋三や自民党の道連れは断固として拒否したい。私たちが願っているのは、安倍自公政権の破綻、壊滅だけである。そんなことを考えていると、スラヴォイ・ジジェクの次のような言葉が気になってくる(これが載っている本の原著は2002年、16年前に出版されていて、これも必ずしも新しい本とは言えない)。


​旧き良きドイツ民主主義共和国では、以下の三つの特徴を兼ね合わせることは同一の人間にとって不可能だった。その三つとは、確信(公式的イデオロギーへの信心)、知性、そして正直さである。もし確信しかつ知性的であれば、正直ではないし、もし知性的であると同時に正直だとすれば、信ずる者ではないし、もし信ずる者でありかつ正直だとすれば、知性的とは言えない。こうしたことはリベラルな民主主義イデオロギーにも当て嵌まらないだろうか? もし覇権をもっているリベラルなイデオロギーをマジに信じている(振りをしている)のであれば、知性的であると同時に正直であることはできず、愚かであるかあるいは腐敗堕落したシニカルな人物である他ない。​ [2] ​


 日本はリベラルな民主主義の国か? 旧民進党の解体プロセスは今も続いているが、そこで離合集散を繰り返している政治家たちのかなりの部分はつまらない保守なのだが、彼ら自身は「リベラルな民主主義イデオロギー」を語っているつもりらしいのだ。「愚かであるかあるいは腐敗堕落したシニカルな人物」ということか。
 安倍自公政権解体後のストーリーもかなり困難な想像力を必要とするようだ。とはいえ、安倍政権以降がどんなであれ、安倍政権よりはましだろう。そんな乱雑な想像が真っ先に思い浮かぶのは、なによりも安倍政権の絶望的なほどの惨めな欺瞞性の故である。




青葉通り。(2018/5/11 19:27~19:35)


 暑い。デモを歩いたせいばかりではない。今朝早く散歩に出たのだが、寒すぎて5分ほど歩いて引き上げてきた。そのことがあって、やや保温に気を遣いすぎてしまった。ジャケットが厚すぎたのだ。
 デモが終わり、青葉通りを西に歩き始めたところでジャケットを脱いだ。少し寒くなったが、それと見合うように急ぎ足になればちょうどよくなるのだった。今朝散歩をさぼった分、少し大股で急ぎ足で帰った。急いで帰って、写真整理とブログを片付けないと、ほかの仕事が滞るのだ。



[1] ハンナ・アーレント(山田正行訳)『暴力について――共和国の危機』(みすず書房、2000年)p. 6。
[2] スラヴォイ・ジジェク(永原豊訳)『「テロル」と戦争――〈現実界〉の砂漠へようこそ』(青土社、2003年)p. 101。




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Last updated  2018.05.12 18:19:29
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