862594 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

山行・水行・書筺 (小野寺秀也)

山行・水行・書筺 (小野寺秀也)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

小野寺秀也

小野寺秀也

Category

Archives

2024.04
2024.03
2024.02
2024.01
2023.12

Recent Posts

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Rakuten Card

Favorite Blog

コップの中の泥仕合… New! 佐原さん

ウクライナで西側が… New! Condor3333さん

ハンカチの花が 咲… New! 蕗さん8256さん

う~ん・・・ New! ふうママ1130さん

コロナで死んで行っ… New! 歩世亜さん

Comments

Freepage List

Headline News

2018.10.26
XML
テーマ:街歩き(613)
カテゴリ:カテゴリ未分類

​​ 『三つの革命――ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』[1] をようやく読み終えた。遅々としてページは進んでいなかったのだが、二、三日前から続いている微熱のせいでメリハリなくぐずぐず暮していたら思いのほかに捗ってあっという間に読み終えてしまった。微熱といっても、その後に続くあれこれを畏れてぐずぐずしていたというだけなのだが。
 佐藤嘉幸さんと廣瀬純さんの共著の「結論」と題された最終章は次の文章で始まる。​

​​
 ドゥルーズ=ガタリは資本主義の打倒を目指している。資本主義をその下部から掘り崩すものとして彼らが構想する戦略(ストラテジー)は不変だ。『アンチ・オイディプス』で階級外主体集団の形成とされるものは、『千のプラトー』で万人によるマイノリティ性への生成変化とされるもの、『哲学とは何か』で絶対的な内在的脱領土化とされるものと同じである。『アンチ・オイディプス』ではブルジョワジーとの、『千のプラトー』ではマジョリティとの、『哲学とは何か』では人間との闘いがそれぞれ語られるが、「ブルジョワジー」、「マジョリティ」、「人間」はすべて同一の実体(資本主義的かつ民主主義的な主体)を指している。
 差異は戦術タクテイクスの水準に存する。『アンチ.オイディプス』ではブルジョワジーに対するプロレタリアによる階級闘争が、『千のプラトー』ではマジョリティに対するマイノリティによる公理闘争が、『哲学とは何か』では死せる動物(マイノリティ)を眼前にした人間(マジョリティ)による政治哲学が、それぞれ資本主義打倒闘争の主戦場に位置付けられる。ブルジョワジー/プロレタリアート、マジョリテイ/マイノリティ、人間/動物。戦術のこうした変更は、運動の趨勢に応じてなされたものだ。 ([1] pp. 311-312)​​


​ ドゥルーズ=ガタリが三つの革命を語ったのは、それぞれに時代状況の変化に応じてだったが、佐藤=廣瀬はその三つの革命が現代日本では同時発生的に進行していると分析している。​

​ 
​『アンチ・オイディプス』でブルジョワジーからプロレタリアートが割って出る運動として問題にされた階級の二極化(新たな階級の構成)は、二〇〇〇年代前半から日本のみならず世界各国で、プロレタリアートからプレカリアートが割って出る運動として闘われてきた。『千のプラトー』で問題にされたマイノリティによる公理闘争は、二〇一〇年に鳩山由紀夫民主党政権が普天間基地の「県外移設」を断念して以降の琉球での基地返還/独立闘争、また、二〇一一年に福島第一原発事故が始まって以降の福島での脱被曝/反原発闘争として闘われてきた。『哲学とは何か』で哲学の政治化として問題にされたマジョリティによる闘争は、一九九〇年代後半のオルターグローバライゼイション運動(G8に象徴されるような先進諸国のユニラテラリズムに対する異議申し立て)、二〇〇〇年代前半の反戦運動(国際的コンセンサスを無視した米英主導のアフガ二スタン及びイラクへの武力侵攻に対する異議申し立て)、アラブの春(チュニジア、エジプトなど)を契機とした世界各地での広場占拠運動において、また、日本ではとりわけ原発再稼働反対運動から安保法制反対運動へと至るこの六年間の一連の運動(民意をカウントしない閣議決定や強行採決への異議申し立て)において、民主主義をめぐる市民たちの運動として闘われてきた。​ ([1] pp. 316-317)​


 私たちの脱原発運動は、市民(マジョリティ)による民主主義をめぐる闘いとして位置付けられる。ドゥルーズ=ガタリ風に言えば、哲学の政治化ということになる。しかし私たちの運動体には、福島に隣接する宮城に住む者として放射能被曝棄民としてすら認知されない、無視された被曝棄民という強い意識を持つ人々も含まれている。
 また、なによりも原発設置県としての潜在的な被曝棄民としての未来を私たちは持っている。つまり、福島の人々と通底するような可能的マイノリティという自己意識もまた私たちの運動の基底として存在している。いわば、ドゥルーズ=ガタリの言う第三の闘いに第二の闘いが確実に埋め込まれている。
 マイノリティの公理闘争において「マイノリティはマイノリティ性へ生成変化する」とドゥルーズ=ガタリは語る。明確にその意味を理解できているとは言い難いが、その意味を考えさせられ、今も考え続けているが、さしあたって現時点では次のように考えておくことにする。
 様々なマイノリティが存在し、そのそれぞれはマイノリティゆえに孤立してる。その個別のマイノリティが個別の公理闘争に立ち上がり、その闘いの過程で個別特殊的なマイノリティから「マイノリティ性」(あらゆるマイノリティに共通するマイノリティとしての本性)へと生成変化する。その生成変化によって福島のマイノリティは沖縄のマイノリティと通底することが可能になる。理想的には、世界のあらゆるマイノリティと同じ基底に立つようになる(なりうる)ということだろう。

 私たちの「脱原発みやぎ金曜デモ」も6年を過ぎ、7年目に入った。そして、今日は300回金デモである。微熱は続いているが、今日だけは遅刻しないように早めに家を出た。






肴町公園。(2018/10/26 17:58~18:31)


 300回記念デモというものの実際は299回目である。今日のデモを300回記念デモと決めて準備を進めている間に、台風の接近で中止になったデモが1回あったためだ。

 肴町公園に集まってくる参加者は、それぞれハロウィーンらしい紛争に着替えたり、それらしい飾りをまとったりしている。
 シンガーソングライターの苫米地サトロさんの歌い出しを合図のように集会が始まる。代表の西さんの挨拶は、長く続く脱原発デモにもかかわらず参加し続けていることへの感謝から始まった。まだまだ続くだろう脱原発デモの当面の目標は女川原発2号機の再稼働阻止であるが、その先にはすべての電力会社がすべての原発を諦めるまでという目標があって、いつデモを終えることができるか定かではないが、デモ人の覚悟は十分の様に見える。
 ゲストスピーカーの一人目は、「女川原発再稼働の是非をみんなで決める県民投票を実現する会」代表の多々良哲さんである。東北電力が女川原発1号機を廃炉にすることを決定したというニュースに触れ、1号機廃炉を2号機再稼働の交換条件などに認めてはならないと強調された。その2号機の再稼働も政府や東北電力や宮城県知事に決めさせることなく、県民の総意として決定すべきだと県民投票の意義を語られ、現在精力的に進められている請願署名活動が署名するために人の列ができるほど活発に進んでいるという報告があった。
 二人目のスピーカーは、「カトリック正義と平和協議会」の木元さん。脱原発デモが長く続く不幸と長く続ける意気込みとのない交ぜの気持を率直に語られ、周囲から聞こえてくる脱原発運動を貶める声に負けずに頑張って参加したいと話された。
 集会の最後は、苫米地サトロさん作詞、作曲の「川」というとてもリリカルな歌で締め括られた。強い意志を持続させている50人のデモ人は、サトロさんの歌で優しい気持ちになって一番町目指してデモに出発したのである。








一番町。(2018/10/26 18:37~18:42)


 昨日の10月25日に東北電力が女川原発1号機を廃炉にするとして宮城県知事に表明したというニュースは各マスコミで一斉に報じられた。1号機は運転開始から35年を迎えているうえに、2号機、3号機と比べて出力も小さく、新規準適合のための改良工事も嵩んでコスト的に見合わないという判断で、​朝日新聞​はその事実を端的に伝えていた。
 ​日経​は、その事実を伝えた後で、「ただ女川原発では協力会社も含め約3000人が働く。地元にとっては雇用などの経済効果で極めて大きな存在で、自治体は税収面でも原発への依存度が大きい。こうした点を踏まえ村井知事は「関係する自治体への影響を検討する必要がある」との考えを示した。須田町長も「地域経済や住民への影響を精査する」としている」として、その経済的影響をネガティブに記述している。
 これに対して​毎日新聞​の記事は、「東北電によると、女川原発の社員や協力会社員約2700人の半数あまりが地元住民だが、今後も廃炉作業が続くことなどから、雇用に大きな影響はないという」と締めくくっていて、日経とはまったく逆の記述になっている。
 また、地元の​河北新報​には「廃炉決定には、審査が終盤を迎える女川2号機の再稼働に地元理解を得たいとの思惑もあるとみられる」という記述があって、デモに先立つ集会で多々良哲さんが「1号機廃炉を2号機再稼働の交換条件などに認めてはならない」と強調された話がじつにリアリティあるものだということがわかる内容である。
 たまたま4社の報道を目にすることができたが、短い記事ながらその比較はけっこう興味深いものだ。日経の立ち位置は想像通りだが、毎日がまったく逆の見解を紹介していて面白い。女川原発に関しては河北新報の真摯な姿勢に好感を持っているが、2号炉に関する私たちの心配と通底していることが目をひいた。






広瀬通り。(2018/10/26 18:43~18:42)


 10月12日(前回)のブログで、南相馬市議会議員の大山弘一さんが南相馬市立病院から提供された病名ごとの患者数推移のデータを井戸謙一弁護士がフェイスブックに投稿した記事を紹介した。東電1F事故前の平成22年から事故後の平成29年の甲状腺癌(成人)の疾患数が29倍に増加しているという驚異的な数値が含まれていた内容だった。
 その時、こうしたデータの評価はいずれ専門家によってなされるだろうと書いたが、ほかならぬ井戸弁護士から10月19日に追記の投稿があった。「疾患数」は単純な「患者数」ではないという批判があったと記されている。真偽は確定していないが、誤解のないように井戸弁護士の投稿記事の関連部分を転記しておく。


​私が10月7日に書き込みました南相馬市立総合病院の主傷病者数のデータについて、多くの人からご意見をいただきました。この「主傷病者数」というのは、前便でも書きましたとおり、同病院の医事会計システム上、その年度において「治療中」と把握されている患者の数であり、前年度の数字から、新規患者の数をプラスして、治癒、中止、転院、死亡等の患者の数をマイナスして当年度の数字が出したものです。したがって、理屈では、当年度に同病院で治療を受けた人の数(「患者数」といいます)であるはずです。そして私は、「主傷病者数」=「患者数」(当該年度に同病院で治療を受けた人の数)であるという認識で書き込みをしました。これに対し、批判される方は、病院がマイナスの人数を把握することは困難であるから、「主傷病者数」は累積することになる、すなわち、「主傷病者数」>「患者数」であると主張しておられます。この点は、調査をすればわかるでことしょうが、そうでない限り、同病院で実務を担っている方しか分からないことだろうと思います。ところで、この問題の発端は、2018年9月12日の南相馬市議会において、大山議員が、市立総合病院の「患者数」の推移について質問したところ、市立総合病院事務部長が、「患者数」として「主傷病者数」を回答したことにあります。平成22年から平成29年までの7年間に各種の病気の患者数が数倍に増加しているという回答に驚いた大山議員が、その要因の認識について質問したところ、事務部長は、増加していることを前提にした上で、その要因については分析中であると答え、市長も、増加の事実を認める答弁をしました。すなわち、市立総合病院当局や市当局は、少なくともこの答弁の時点では「主傷病者数」=「患者数」、少なくとも「主傷病者数」≒「患者数」と考えていたことがわかります。批判される方は、市立総合病院の事務担当の方が、「マイナスの把握は難しいから「主傷病者数」実質は累積されることになる」と説明したと主張されておられます。その説明内容の真偽は私には分かりませんが、少なくとも、「主傷病者数」と「患者数」の関係についての南相馬市や市立総合病院当局の公的な認識の表明は、上記の答弁しかないのではないかと思います。もし、他にあるのであれば、教えていただければありがたく思います。大山議員の質問に対する​南相馬市当局の回答は、ここ(12分から24分)​で見ることができます。​


​ 南相馬市の市長や病院関係者は患者数が増加しているという認識だと記されているものの、いずれにせよ、きわめて重要なデータなので、できるだけ早く精査されることを期待するしかない。​





青葉通り。(2018/10/26 18:50~17:15)


 50人のデモ人のなかにはハロウィーンの扮装や飾りをまとっているので、カメラの被写体には困らないのだが、今日のコースには明るい一番町はほんのわずかしか含まれていない。集会の肴町公園もかなり暗い公園だし、公園からの暗い路地から出るとあっという間に一番町を過ぎて暗い広瀬通りに曲がってしまう。
 120枚ほどの写真から50枚ほどを残したが、それでも満足できない写真がだいぶ含まれている。暗いシーンは暗くていいと思ってフラッシュを使わないので、これからもこんな撮影が続くのである。



[1] 佐藤嘉幸、廣瀬純『三つの革命――ドゥルーズ・ガタリの政治哲学』(講談社、2017年)。



読書や絵画鑑賞のブログ
かわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)
小野寺秀也のホームページ





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2018.10.28 16:29:01
コメント(4) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.