|
テーマ:今日のこと★☆(104767)
カテゴリ:つぶやき、人間関係
我家の花壇の花の多くは、実家の母が種から育てた花である。
しかし今年は、どうしたわけか苗が上手に育たなかったようで、 丈夫な数種類の花だけしか使えないという。 花壇作りが「生きがい」のような母は、 自分が育てた花苗ではまったく物足りず、 市販されている花苗を大量に買い込んで花壇を作っている。 その娘の私はと言えば、 母が「もういらないから、好きなだけ持っていけ」という苗を貰って、 自分の家の花壇を作っている。 というわけで、今年は三種類の花が、我家の花壇の基本素材である。 この数日、「早く持って行かないと、邪魔で仕方ない」という 母の催促が続いていた。 自動車の運転が出来ない私は、夫が休みの時にしか苗を運べない。 その日が本日であった。 三種類とは言え、これを市価で購入したら二万円以上にはなる。 種から育てるというのは、実に実に手間のかかることで、 それをただで貰うということは、「ありがたい」に尽きるのだが・・。 不肖の娘は、毎年「(仕方なく)母の仰せに従い」花を植えている。 まったくもって罰当たりなことだと思いながらも、 やはり私の心中は、「母の気持ちには逆らえないから」という気持ちがある。 家の周りが色鮮やかな花で彩られるのは嬉しいことなのだが、 それができることを毎年心から喜び、母に感謝し誇りに思えないのは、 私が親不孝の証といえるのだろうか。 毎年、花を植えながら、そんなことを思ってしまう。 「親に感謝せよ」「親に心配をかけるな」「親の愛は海より深い」なんて、 大人はなぜに、子どもに親への感謝を強要するのだろう。 そのように純粋に信じていられる人たちは、 きっと親からの愛情が「ほどほど」だったのだろうと思う。 過剰な愛情や親の期待の押し付けなどは、 あまり「親への感謝」にはつながらないように思う。 私は、健康で丈夫な体を授けてもらったことに対しては、 純粋に両親に感謝している。 ただ(無料)で花を貰えることも、ありがたいことだとは思う。 しかし、これがまったく貰えなくなっても、 さほど淋しくは感じないような気がする。 三種類ではチョッピリ淋しいので、自分の好きな花を数種類買ってきた。 母の花苗の間に揺れる小さな花が、 私にはとても可憐で可愛く見えてしまう。 花でも何でも、自分で選んだものには親近感を抱くものだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年06月06日 09時17分18秒
コメント(0) | コメントを書く
[つぶやき、人間関係] カテゴリの最新記事
|
|