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カテゴリ:つぶやき、人間関係
昨日から、日記リンクしている秀0430さんの日記に感動している。
秀さんご自身は、「感動」という表現では違和感を覚えるかもしれないが、 私が勝手に感動しているのだからご了解いただきたい。 私は秀さんの日記を「論理的に考えること」を学ぶつもりで拝見しているし、 ほとんどの場合「なるほど・・」と納得したり、 自分がモヤモヤしていることを整理していただいたりすることが多いので、 とても勉強になっている。 しかし、彼が5.19日に「フェミニズムのうさんくささ」 というテーマで書き始めてからは、 正直なところちょっと違和感を覚えていた。 私はフェミニズム論者を全て無条件に支持しているわけではないが、 大筋ではフェミニズムを支持している。 だから、世の中のフェミニズム批判のほとんどは 「偏見と誤解」によるものと思うことが多い。 フェミニズム論者に対しての違和感も、 「そのような言い方じゃ、誤解されてもしかたがないよ」というようなことが多いのだ。 だから、秀さんのフェミニズムに対する批判も、 多分多くは当たっているのだろうと思いながら、 正直なところちゃんと読んでいなかった。 自分の中の違和感を、ビシバシと論理的に詰めてゆくことができないので、 「これに関しては、秀さんとは視点が違うな」と思い、 それ以上突き詰めることをしなかったのだ。 だからこの何日かは、一応日記を覗きはするけれど、 キチンと読んでいなかったことを、お詫びと共に白状する。 私のこの傾向は、このことに限らず他の人に対しても同様である。 私の関心と一致するものはちゃんと読むけれど、 読んでいて「私とは前提が違う」と思う時には、参考までにと読み流す。 これは、私だけではなくほとんどの人がそうだろう。 だからこそ、誤解や偏見を取り除くのは難しいといえるのだ。 前置きが長くなってしまったが、 そんな秀さんが昨日の日記で 瀬戸さんの指摘はほぼ全面的に正しかったと書いてあることに、驚いた。 そして、こんどはちゃんと読んだ。 もちろん、トラックバックされた瀬戸智子さんの「論理学の勉強」も読んだ。 引き続き、一方的な反批判停止宣言 、 そして今朝自らの誤謬から学べること を読み、今まで以上に秀さんのファンになってしまったのだ。 私は、誰もが「偏見と差別意識」を抱えていると思っている。 これはもう、人間の宿命のようで逃れられないものだと思ってもいる。 しかし、それに無自覚か、多少なりとも自覚しているかでは大違いで、 自分の内なる偏見と差別意識に気付いた時には、 偏見や差別を受ける側の立場に立って考えることが出来るようになる。 人間同士が本当に対等に、「お互い様」と許しあったり支えあったりできるのは、 そんな経験があってからではないかと思っている。 だが、この「内なる偏見や差別意識」を自分で気付くことは、 一般的に想像するよりもとても大変なことである。 それなりの経験や自信を持って生きてきた大人が、 自ら自分の偏見を認め、さらに「自分が間違っていた」と公表するということは、 砂の中に小さなダイヤを見つけるようなものではないかと・・。 自分の身の回りを見て欲しい。 ある程度の地位や権力を持った人が、本当の意味で自分の過ちを認めて、 心から謝ることがどれだけあるだろうか。 私は、ある程度の大人になってしまった人に対して、 そのようなことをあまり期待してはいない。 なぜなら、自分自身がとても難しいと感じているからだ。 そのようにありたいとは思っているが、現実的にはとても難しいことは、 日々痛感しているからである。 だからこそ、ご自分の中の偏見や誤謬に気付き、 潔くそれを認め、そこから学ぼうとしている秀さんに対して感動したのである。 そして、自分の間違いを気付くことができるためには、 何かに真剣に向き合い考えているということと、 信頼できる人との対話であるということを再認識させられた。 「気付く」ということは、 誰かに指摘されたり教えられたらそれで気付くということではない。 それを受け入れる準備が自分の中にあり、 常日頃の付き合いの中で、信頼できると思っている人の適切な言葉が、 自ら気付くことを促すのだと思う。 これから秀さんが、どのようなことをお書きになるのかととても楽しみである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年05月24日 09時51分10秒
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