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テーマ:つぶやき(11963)
カテゴリ:心身の健康、不登校、ひきこもり
最近「生きづらさ」という言葉をよく耳にするし、自分でも話の流れで使うことが増えてきたように思う。
私が使う文脈としては、発達障害など少しばかり個性的な人や子どもたちが、 周囲の人たちとの関係を上手に作れなかったり、見えない壁を感じて戸惑いや困り感がある時や、 精神的な病気や鬱傾向などで苦しかったり、何らかのトラウマによって苦しいことがあったり、 私生活や社会生活でなかなか思うようにはならない状況に陥りやすい人などの話をする時かな。 もっと色々な場面があるような気がするけれど、 それに対して「生きづらさ」という言葉が使われるようになったのはいつからだろう。 振り返ると、私自身も「生きづらさ」の範疇に入るような時は何度もあったかと思うのだが、 もしその時に「生きづらさを抱える私」と定義付けたらどうなっていたんだろうと思うことがある。 実は、昨日もそのように感じることがあった。 人は、ストンと腑に落ちる言葉に出会うと、何となく整理されたような気がしやすいし、 その言葉によって、自分だけの問題ではなく普遍性のある問題と感じられるて、 少し気が楽になったりすることは確かにある。 でも、腑に落ちて少し苦しさが軽減され気持ちが軽くなったとしても、 それで問題や課題が解決するわけではない。 「そうそう、そうなんだよね。わかる、わかる」は、仲間を作るのには良いきっかけだけど、 そこで安心しただけでは何も変わらないのだ。 仲間は同じ社会的な問題を解決するためには必要である。 心許せる友達も、自分の心の安定には大切なものだと思う。 しかし、それだけでは自分自身の課題の解決にはならない。 生きづらさを抱えて苦しんでいる人には理解者や支える人は必要だと思うし、 私もそんな一人になりたいと思っているけれど、 決して「助ける人」にはなれないのだとも思っている。 (「支える」と「助ける」とは、少し違うと私は区別している) そして現在の社会は、支えよう理解しようとする「共感力」や「相手への想像力」が低下しているように感じるので、 このような時代に生きづらさを感じる人が生きてゆくには、 もう少し違う力が必要なのではないかと思うようになっている。 私は多少生きづらさを感じていたように思うが、それを周囲の問題だと考えたことはなかった。 自分自身で乗り越えなくてはならないことだとしか思っていなかったから、 その分だけ不必要に自分を責めて辛かったかもしれない。 でも、今はそれでよかったのかもしれないと思っている。 「もしも、母が私の気持ちを理解して共に悩んでくれる人だったら」 「もしも、仕事の環境がもっと公平であったなら」 「もしも…、もしも」といくつもの「もしも」があるけれど、 きっと「もしも私にとって想像できる限りの良い環境」だったら、今の私はいないだろう。 こう書いていて思うのだ。 やはり人間には「生きづらさ」もある程度必要なのではないかと。 もちろん、理不尽で個人が耐えられないような生きづらさは論外である。 でも、そんな理不尽な状態であっても、 少しばかりの想像力や支える力のある人がたった一人でもいたなら、 それを命綱のようにして生き延びる力は人間にはあると信じている。 親は子供に幸せになってほしいと願うあまり、なんでも自分が助けてやりたいと思いがちだ。 でも、親が助けられるのはある程度幼い頃しかない。 だからこそ、幼い頃から困ったことがあったら自分で何とか乗り越える力を育むことを意識しなくてはならないと思う。 誰でも生きることは辛いこととセットだと思う。 こう書いていて、ふと思い出したことがある。 私が最初に仕事をしたのは「精神薄弱児収容施設(当時の呼称)」だった。 その時に入所していた10代後半の女性は、重度の知的障害と中程度の身体障害を抱えていた。 会話はほとんど成り立たなかったが、いつも呟くように発する単語が二つあった。 それは「ごめんなさい」「ありがとうございます」だった。 (ひょっとすると、まだあったかもしれないけど、私の記憶に残っているのはそれだけ) 排便の世話とか、移動の世話などで介助する時、その言葉をつぶやいていた。 それは、状況に合っているとは必ずしも言えなかったが、 それを聞くたびに私は思った。 「この人のお母さんは、これから多くの人の世話にならなければ生きていけないわが子に、 必死でこの言葉を教えたのだろうな」と。 そして、そんな親の思いを感じて胸が詰まる思いがした。 きっと、とても賢いお母さんだったのだろうと思う。 その人、その人に生まれ持った個性がある。 その個性を受け入れ、その子が色々な人と関わりあって生きていかなくてはならないのだから、 そのために大切なことは何かと必死で探ってほしい。 そしてある程度の知的能力があるならば、それぞれ自分の個性を知ったうえで、 何を学ぶことが大切なのかを考えてほしい。 決して、「学校の勉強」だけが大切なのではないのは確かだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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