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テーマ:戦争・紛争・テロ(902)
カテゴリ:家族・親族
このブログでも何度か書いたけれど、亡き父は占守島で終戦を迎え、
終戦後に突然侵攻してきたソ連軍と戦い、 その後ソ連で二年間の抑留生活後に帰国した。 戦時中のことは、元気なころにはほとんど話すことがなかったが、 脳梗塞で失語症を患い、様々な地域活動からも離れてから、当時のことを話すようになった。 今のロシアのウクライナ侵攻のニュースを見ながら、父の言葉をたびたび思い出している。 終戦後のソ連の占守島への侵攻で、必要のない戦いをしなくてはならなくなり、 ソ連という国の卑怯さには生涯怒りを抱いていた父だが、次のような話もしていた。 「ソ連の兵隊は可哀そうなもんだった。 戦争が終わって故郷に帰れると思っていたら、占守島で日本軍と戦うことになったんだからな。 こっち(日本軍)は戦車部隊が無傷で迎え撃っているところに、鉄砲担いで上陸させられたんだ。 占守島の戦いでは、日本兵よりソ連兵の方がずっと死んでいるんだ。」 それは、まさに「軍事演習だと言われていたのに、ウクライナと戦争することになった」現在のロシア兵の驚きと困惑と共通しているように思う。 抑留されてからの話にも、「ソ連は嫌いだがロシア人は好きだ」というエピソードが色々あった。 抑留生活になっても、日本軍時代の上下関係は日本人社会では健在だったようだ。 だから、上官だった人は階級が低い人をイジメたり偉そうに振舞うのは当たり前。 しかし、だんだん苦しくなってくると、互いの足の引っ張り合いや、 少しでもソ連兵のご機嫌を取ろうとするものも出てくるし、 「共産主義教育」にも進んで協力する人もいたようだ。 もちろん、中には本当に共産主義に共感した人もいるだろうが、 卑怯な「面従腹背」や「忖度人間」も多かったであろうことは、 現在の日本人の傾向性をみれば理解できる。 父は本当はどうだったかわからないが、もともとリベラルな考え方の人で、 要領よく立ち回ったであろうとは思うが、 日本人の卑しさやいやらしさを抑留生活で骨身にしみたと言っていた。 それに比べて、ロシア人はとても人が良く、命令には従うけれど、 日本人を敵視することはあまりなく、父はロシア人を次第に好きになったようである。 人一倍頑丈な体を持ち、仲間の分までよく働き、ロシア人すら好きになってしまう父のことを ロシア人だって親しく接してくれただろう。 父が日本に帰ることになった時には、ロシア人の兵隊が 「おめでとう」と祝福してくれたようだ。 のみならず、 「日本に帰らずに、こっちで結婚して生活したらどうだ。 ソ連にはモンゴル系の人達も多いし、お前ならいい生活ができるかもしれない」とすら。 日本人の嫌らしさで嫌な思いをしていた父は、一瞬「それもいいか」と思ったようだが、 やはり日本の家族が待っていると帰国したという。 そんな経験をした父が生きていたら、今のロシアのウクライナ侵攻をどう思うだろう。 「あの時とおんなじだ。やっぱりソ連とロシアの為政者の考えることは変わっていない。 そして、 「ロシアの人達は気の毒だ。プーチンは兵士の命なんて何とも思っていない。 ロシアの国の人のことだって、本当は何とも思っていないんだ。 ソ連もロシアも大っ嫌いだ。ロシアの人達は気の毒だ」 と言うのではないかと想像する私である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月16日 09時44分39秒
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