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テーマ:故郷について(59)
カテゴリ:つぶやき、人間関係
12月3日に小中学校時代の幼馴染Kさんが、中学の担任の先生が関わっている演劇公演のために来道した。
私はその先生には社会科を習っただけなので、随分前に二度ほど行っただけだ。 毎年、その公演に合わせて彼女は関西から来道し、次の日には私とも会うのが恒例だ。 今年は、夏に私達の担任が彫刻展を開催したので、それに合わせて来ていて、その時にも会っている。 市内のクラスメイトとも数年に一度しか会わないのに、彼女とは毎年のように会っている。 彼女と会うのはイヤではないし、その都度懐かしい思い出話もして楽しい時間を過ごす。 会いたいと思ってもらえることは、ありがたいなあとも思うし感謝もしている。 それにしても、どうしてそれほど彼女は北海道の旧友に会いたいのだろうかと、多少不思議なのも事実である。 次の日の12月4日は、小中学校時代に住んだ場所や小学校に行きたいということで付き合った。 同じ市内で私はこの町にずっと住み続けているのだけど、通学路や小学校、 彼女たちの住んでいた場所などを歩く機会もないし、歩こうとも思わない。 まさに、「故郷は遠きにありて思うもの」のようで、 私も彼女もそのあたりを歩くのは久しぶりなのだけど、 彼女のように「わー、懐かしい!」「随分変わったけど、山並みはおんなじだね!」なんて 感動の言葉は出てこない私である。 彼女は関西生まれなのだが、小学校から高校時代までの成長期をすごしたこの町や北海道は、まさに故郷なのだろう。 帰宅すると、留守電が入っていた。なんと、宇治に住む幼馴染だった。 一緒に話をしていた時に、彼女のことも話題に上った。 私達の会話が何となく彼女の気持ちにシンクロしたのだろうか。 すぐに電話をしたら、「特に用事はなかったけれど、どうしてるかなと思って」ですって。 「今日はね、Kさんが来ていて、途中からО君が車で空港まで送ってくれて、貴女のことも話していたんだよ」というと、「えーっ、ホント!」と驚いていた。 これがシンクロニシティというものかもしれない。 色々な会話の中で、亡くなった友人たちの情報も聞く。 「またね」とは、いつも別れる時にかけあう言葉だけど、 再会できるかどうかもわからない年頃になったのだと痛感する。 彼女が関東に住むN君に、空港で三人で撮った写真をラインで送ると 「自分もみんなに会いたい」と、近いうちに場所や時間を決めてほしいと返事が来たとか。 「どうしたもんだか…」とラインが来たけれど、 とにかく北海道・関西・関東と離れている仲間同士。 彼自身がこちらに来た時に、近くにいる人たちで都合がつけば会うというようにはいかない。 どうもKさんもN君も、呼んだら私もO君も喜んで駆けつけると思っているような感じ。 正直にここで白状しましょう。 ずっとここにいて、みんなか来た時には精一杯歓迎する故郷居残り組と、 離れて故郷を熱い思いで懐かしむ人たちとは、 幼馴染や故郷に対する懐かしさの度合いも違うようですよ。 ホッチャレになりかかった鮭を、ふと思い出してしまった私でした。 (ホッチャレは名詞です。念のため) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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