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テーマ:エッセイ(97)
カテゴリ:過去のエッセイ・ポエム
「我が心の石川啄木」(47歳)
色あせて手垢やシミがついた一冊の本「啄木詩歌集」。それは、中学生になりお小遣いを貰うようになってから、生まれて初めて自分で買った本である。あれからもう三十五年も経ってしまった。 啄木との出会いは、小学五年生の頃だったと思う。確か、彼の伝記を読んだのがきっかけだったが、その生い立ちよりも、そこに書かれていた短歌が私の心をわしづかみにした。 私はノートに短歌を書き写し、暇さえあれば口ずさんでいた。どの歌も、なぜか心にジンときた。まだ子どもだった私が、彼の何に共鳴していたのか今でも不思議な気がするが、それらの歌は私がこれから踏み入れようとする青春や、大人の世界の悲しさや切なさを予感させ、同時に強い憧れも感じさせたのだろう。 どうしても彼の書いたものを全て知りたいと思い、私はその詩歌集を買ったのだった。 それには、「一握の砂」「悲しき玩具」と、詩集「あこがれ」が収められていたのだが、詩の方は言い回しや言葉が古臭く、どうも馴染めなかった。 短歌のわかりやすさとのギャップが大きいこともあり、詩は一読して(難しい)と見捨て、ひたすら短歌だけを恋し続けた。思えばあれは、私の初恋だったのかもしれない。 中学生になり密かに憧れる人もいたが、それが自分の真情なのか啄木の心情なのか、今ではよくわからない。ひょっとすると、啄木の心に重ね合わせるために、似た雰囲気の人を求めたのではないかとさえ思う。 そのせいか、私の現実の初恋は何とも歯切れが悪く、その人のどこがいいのかもぼやけたものになってしまった。私の啄木熱は、何と高校生になっても続いていた。 大人になって啄木の現実生活を知るようになり、その身勝手さや、あまりの自己中心性にショックを受けもしたが、彼の歌を好きなことには変わりはなかった。 今でもこの詩歌集を開くときには、「初恋のいたみを遠く思い出ずる日」になり、胸がキュンとしてしまうのである。 思春期に石川啄木を好きになった人は多いのではないだろうか。 でも今では、彼も随分と過去の人というか歴史上の人物に近くなってしまったので、 若者では知らない人も多くなってしまったかもしれない。 しかし彼の短歌は、口語体と言うか話し言葉に近いものなので、現代人にもすんなりと理解できる歌である。 そして、彼は若くして亡くなったこともあり、まさに思春期のままに生きて詠んで旅立ったため、はっきりいって大人の歌はない。 周囲にとってははた迷惑な人だったと思うが、それがあってこそのあの歌の数々と思うと、何とも複雑な気持ちになる。 もし彼が長生きして、沢山の人達に愛され支えられてこその人生であり命だと知った時には、どんな歌を詠んだのかなと思ったりもする。 でもその時は、彼の短歌の魅力は失われ、つまらない普通の歌になっていたのかもしれない。 ともあれ私は、啄木の短歌のおかげで、自分の心を言葉で表現することを知ったような気もする。 石川啄木の生涯と文学 26歳の生を二冊の歌集に凝縮 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年03月14日 09時11分21秒
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