テーマ:悪性リンパ腫(653)
カテゴリ:治療記録
3月31日に倒れてから、寝たきり状態になり、日々、驚くほどのスピードで衰弱は進んだ。
4月5日、午前中はまだ会話が少しは出来たのが、夕方にはほとんど出来なくなっていた。 それまでは強い痛みを訴えなかった母がその日は、背中、身体全体の痛みを訴えた。苦しそうに身体を動かし、目を大きく見開く母。 午後3時ぐらいだったろうか。 私が苦しそうな母に 「お母さん大好きだからね、 お母さんのこと世界で一番愛してるからね、 お母さん私を生んでくれてありがとう、 お母さんの子供で生まれて本当に幸せだった お母さんほど私のことを想い愛してくれる人は他にいないよ、 お母さんありがとう」 と話しかけていると 苦しそうな聞き取りにくい声で 「ありがとうございました、 ようやくわかりました、 お世話になりました、 ありがとうございました、ありがとうございました」 と繰り返した。 その時は、そばにいた妹、叔母と一緒に 「お母さんお世話になりました、なんて 過去形で言わないでよ」と笑っていたけれど その後は、ほとんど会話が出来なくなっていった。 それが母の私との最後の会話になった・・・ 私は、ずっと母に病状告知をしようか悩み続けた。 遠まわしに、病状について伝えようと何度も試み、その度に母に拒絶され、母の想いを傷つけてきた。 母の「ようやくわかりました」という言葉は、その私の想いに気付いてくれたということだろうか。 あれほど、絶対元気になると、決して死について考えようとしなかった母が、あのとき自分の死期を悟ったように感じる。 母の最期の言葉が「ありがとうございました」 という言葉だったことは一生忘れない。 絶対に忘れない。 でも、私はどうだろうか。 あれほど生きると強く信じてきた母を最期の数日は、主治医も看護師も、母は死ぬことを前提に私に話しかけていた。 その時まだ母は治ると信じ、がんばっていると言うのに・・ そして私もまた、 私はもう随分前から、母の死を想い、 なんとかその時の自分の恐怖を免れようと 死に関する本を読み、その時の自分をシュミレーションしていた。 母の死という重みを一人では背負いきれず、苦しくて母とそれを共有したいと思ってた。 私は母の生きたいという思いに寄り添いきれなかった。 私は今、母に話しかける。 「お母さん私はお母さんに愛されるような人間ではないのです。 私はお母さんが死ぬのではないかとずっと思ってた、 お母さんがあれほど生きたいと願い続けていたのに 私はお母さんと一緒にそう信じきってあげれなかった。 いつもいつも怖く、お母さんの死を思わずにいられなかった。 お母さん、ごめんなさいごめんなさい」 愛されていたという想いが強ければ強いほど 後悔の想いも強くなる。 こんなにも愛されて、たくさんの愛をくれたお母さん。 その愛をもっともっとあなたに返したかったのに 少しでも償いをさせて欲しいのに もうあなたはいない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 9, 2009 11:05:39 AM
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