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白い倍音の魔法使い

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mariyo@ Re:1月25日(水) 感染者のはなし(01/25) 今年もお誕生日のメッセージを送らせてい…

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April , 2024
April 8, 2009
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カテゴリ:治療記録
 3月31日に倒れてから、寝たきり状態になり、日々、驚くほどのスピードで衰弱は進んだ。

 4月5日、午前中はまだ会話が少しは出来たのが、夕方にはほとんど出来なくなっていた。
 それまでは強い痛みを訴えなかった母がその日は、背中、身体全体の痛みを訴えた。苦しそうに身体を動かし、目を大きく見開く母。

 午後3時ぐらいだったろうか。
私が苦しそうな母に
「お母さん大好きだからね、
お母さんのこと世界で一番愛してるからね、
お母さん私を生んでくれてありがとう、
お母さんの子供で生まれて本当に幸せだった
お母さんほど私のことを想い愛してくれる人は他にいないよ、
お母さんありがとう」
と話しかけていると

苦しそうな聞き取りにくい声で
「ありがとうございました、
ようやくわかりました、
お世話になりました、
ありがとうございました、ありがとうございました」
と繰り返した。
 
 その時は、そばにいた妹、叔母と一緒に
「お母さんお世話になりました、なんて
過去形で言わないでよ」と笑っていたけれど
その後は、ほとんど会話が出来なくなっていった。
 
 それが母の私との最後の会話になった・・・

 私は、ずっと母に病状告知をしようか悩み続けた。
遠まわしに、病状について伝えようと何度も試み、その度に母に拒絶され、母の想いを傷つけてきた。
 母の「ようやくわかりました」という言葉は、その私の想いに気付いてくれたということだろうか。
 あれほど、絶対元気になると、決して死について考えようとしなかった母が、あのとき自分の死期を悟ったように感じる。

 母の最期の言葉が「ありがとうございました」
という言葉だったことは一生忘れない。
絶対に忘れない。
 
 でも、私はどうだろうか。
あれほど生きると強く信じてきた母を最期の数日は、主治医も看護師も、母は死ぬことを前提に私に話しかけていた。
 その時まだ母は治ると信じ、がんばっていると言うのに・・

 そして私もまた、
私はもう随分前から、母の死を想い、
なんとかその時の自分の恐怖を免れようと
死に関する本を読み、その時の自分をシュミレーションしていた。
母の死という重みを一人では背負いきれず、苦しくて母とそれを共有したいと思ってた。
 私は母の生きたいという思いに寄り添いきれなかった。

 私は今、母に話しかける。
「お母さん私はお母さんに愛されるような人間ではないのです。
私はお母さんが死ぬのではないかとずっと思ってた、
お母さんがあれほど生きたいと願い続けていたのに
私はお母さんと一緒にそう信じきってあげれなかった。
いつもいつも怖く、お母さんの死を思わずにいられなかった。
 お母さん、ごめんなさいごめんなさい」

 愛されていたという想いが強ければ強いほど
後悔の想いも強くなる。

 こんなにも愛されて、たくさんの愛をくれたお母さん。
その愛をもっともっとあなたに返したかったのに
少しでも償いをさせて欲しいのに
 
 もうあなたはいない。





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Last updated  April 9, 2009 11:05:39 AM
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