笑子さんの一日
笑子さんの一日 笑子さんは僕の同僚。朝は8時30分には出社していて、ホットコーヒーを飲みながら経済新聞を読む。僕が出社すると、「おはようございます」と笑顔で挨拶してくれるんだ。え?そんなこと普通だろって?いえいえ、よく周りを見てよ。僕の「おはようございます」に答えてくれるのは、「うっす」「おお」「はよ」「ども」。ちゃんとした挨拶が帰ってくるのは笑子さんだけだ。 そんな笑子さんのことを、僕はこっそりにこちゃんと呼んでいる。だって、いつだって穏やかな笑顔だし、名前もね。笑子さんは、とても誠実で丁寧な仕事をしている。取引先が間違ったことを言っても、責めたりせず、根気よく説明しているので、結局物事は穏便につつがなく進むんだ。だけど、最近、僕はあることに気が付いた。笑子さんには、いろんな人からプレゼントが届くのだ。昨日も、取引先の営業さんがシュークリームをどっさり持ってきた。もちろん、みんなに配れるように配慮してくれていたけれど、渡し方がね。「笑子さーん。今日はスイーツを持ってきました。いやぁ、先日の書類、助かりましたよ。たまには甘い物でも食べてゆっくりしてくださいね」「まぁ、気を使わせてしまって、ごめんなさい。お仕事の事はお互い様じゃないですか。うふ。でも甘いもの大好きなので、嬉しいです」「でしょ?きっとお好きなんじゃないかと思ってたんですよぉ」「まぁ!美味しそう♪ ご一緒にどうですか?」「いやいや、私はこれで失礼します。」 話しながら中身をチェック。ああ、その笑顔。可愛すぎ!!「笑子さんばかりずるーい」 若い社員の佐伯さんはそういうけど、それとて、決して本気で妬んでるわけでもなく、ともすれば、おすそ分けが欲しいだけだったり。「ふふ。みんなでいただきましょう。」「やった! じゃあ、お茶入れてきますね。」 そうやって、営業さんの前ですぐに中を確かめる辺り、計算ずくかな? みんなが営業さんにお礼を言うので、なんだか嬉しそうに帰っていった。うん、次もなにか来るな。 みんながお茶タイムする10時。それぞれがビル内の自販機やコンビニで飲み物を買って一息入れる頃、笑子さんは夢中で仕事をしている。その真剣な横顔を見るのが好きなんだなぁ。「寺島くん、今日も笑子さんに見とれてるのね」 一瞬で顔が熱くなった。え、そ、そんなつもりはなかったのに。 そっと笑子さんの様子をうかがうと、なにやら険しい顔でモニターとにらめっこ中だった。こんなに傍で話していても、てんで聞こえないんだよなぁ。はぁ。「よっし!!」 突然笑子さんが声をあげて、僕らはひっくり返りそうになった。「ねえ、寺島君。見て! A-トレイドの輸出分、船が見つかったのよ! この値段なら、採算が合うわ」 僕の手を取ってご機嫌で話す笑子さん、うう、可愛すぎる!!「やりましたね! じゃあ、お祝いを兼ねて帰りにお茶でも…」「さぁーて、忙しくなるわね。うふふ。私、ちょっと飲み物買ってくるわ」 ご機嫌で席を立つ笑子さんの後ろ姿には音符がいっぱい飛び交っている。「あ~、今日もダメだったか。寺島君、がんばれ」「佐伯さん…。他人事だと思って」 佐伯さんはぷはっと噴出して笑っている。ちぇっ、何とでも言ってくれ。だけど、笑子さんを見ていると、もうそれだけで幸せな気分になるんだよな。 午後になって、仕事に集中していると、目の前にトンっと珈琲が置かれた。驚いて顔をあげると、笑子さんが笑っていた。「今やっと、一区切りついたんだけど。さっき、何か言いかけてなかった?」「え? あ、あの。」 ああ、すっかりタイミングを逃してしまって、お茶に誘える雰囲気じゃないなぁ。おろおろしていたら、意外な言葉が聞こえてきた。「もしよかったら、今日の帰りお茶でもどう?」「ええ!いいんですか?! じゃあ、よろしくお願いします!」 僕の返事に満足したように、ニコッと笑うと、笑子さんは仕事に戻っていった。「ちょっとちょっと、寺島君! さっきの笑子さん、なんだって?」「え? ん~、秘密です!」 好奇心の塊みたいな佐伯さんが、椅子ごと転がって聞いてきたけど、僕は本能的に言わないことを選んだ。 「ちぇ~、じゃあ、明日、どんな感じだったか教えてね! ふふふ」 え?なんだ、分かってたんじゃないか。だけど、そんなこと、気にならないくらいテンションが上がってる。うわわ。時計は4時を少し回ったところ。あと1時間、嬉しすぎて仕事に集中できないよ。 あっという間に時間が過ぎた。5時ぴったりに佐伯さんは帰っていった。僕の後ろを通るとき、「がんばれ~」なんて言いながら。 机の上を片付けていると、席を外していた笑子さんが戻ってきた。後ろにまとめていた髪を下ろして、お化粧直しもしている。「寺島君、帰れそう?」「はい、もう大丈夫です!」「そう。隣のビルに新しい店舗が入ったの。ちょっと行ってみたかったんだけど、どう?」 ふふ、笑子さんの目がキラキラしている。僕らは早速隣のビルに出かけてみた。 オープン早々という事もあって、お店の前には行列ができていたけど、そんなこと気にならないくらい、笑子さんは話上手だ。気が付くと、窓際の席に案内された。高層ビルの最上階ということもあって、見晴らしが良い。「いいお席ね!」「見晴らしがいいですね」 二人で話していると、ウエイターがそっとメニューを差し出した。「ありがとう」 笑子さんはすかさずお礼を言ってる。「あ、いえ」 ん、このウェイター、ちょっと照れてる? そっと表情を確かめると、見知った顔だった。「あれ?城之内?」「え?あ、寺島? 久しぶりだなぁ」 驚いた。大学時代の友人がこんなところで働いていたとは。二言三言懐かしい話をして、オーダーを取ると、彼は「じゃあな」と言ってカウンターに戻っていった。 その間、笑子さんがニコニコしながら僕らを眺めていた。「お友達?」「ええ、大学時代の友人です。」「いいわねぇ。 ちょっと羨ましくなっちゃったわ」 笑子さんの目に、ほんの少しだけ寂しさがにじんでいる。「笑子さん?」 僕が彼女の瞳を覗き込むと、いつもの笑顔を見せて、それから、一瞬真面目な顔になって忠告された。「あのね、友達が、いつだって傍にいるとは限らないじゃない? 地球上にさえいてくれたら、ネットを駆使していくらでも交流できる時代だけど、星になっちゃったら、さすがに会えないし、声も聞けないでしょ? だから、今のうちに、いっぱい友達とは交流することをお勧めするわ」 それじゃまるで、笑子さんは友人を亡くしてしまったみたいじゃないか。そんな風に聞いてみると、笑子さんはゆっくり頷いた。「もう随分経つけど、学生時代からの親友を亡くしてしまったの。病気だった。いつも明るくて、仕事が大好きな人だった。だからつい、お互い仕事に夢中になって、連絡するのを忘れていたの。」 静かにそういうと、オレンジから紫へ色を変えていく空を眺めていた。「そうか、だから…」 僕の中で、何かがストンと心に収まった気がした。言葉を止めたのは、笑子さんの心が遠くの友達に向いていたから。 僕はそっと席を立つと、城之内にこっそりスイーツをオーダーした。城之内に言わせると、メニュー表を持って行って、きちんと目を合わせてお礼を言われたのが初めてだったんだとか。「かわいい人だな。俺も思わずキュンとなったよ。」「え、おい!」 焦る僕を見て、楽しそうにニヤニヤしていた城之内は、「がんばれよ」と言って、仕事に戻っていった。ほどなくして、最初にオーダーしたコーヒーが運ばれてくると、笑子さんはいつもの笑顔に戻っていた。「いい香りね!」「そうですね。城之内は昔からコーヒーにはこだわりを持っていましたから」「失礼します。こちらをどうぞ」 話していると、城之内がにんまり笑って笑子さんの前に特大プリンパフェを差し出した。「まぁ!どうしたの、これ。」「寺島をこの店に連れてきてくださったお礼です!またいつでも来てくださいね!」 スプーンが二つテーブルに置かれる。これは、二人で食べろってことか?そういうつもりではなかったんだけどなぁ。 焦っていると、笑子さんの楽し気な笑い声が聞こえてきた。「わぁ、ホントにいただいてもいいの?じゃあ、遠慮なく! 寺島君、いただきましょう」「あ、え? は、はい!」 にやりと笑う城之内をむっとして睨んでいると、ご機嫌な声でスプーンを握り締める笑子さんがいた。「寺島君、いい仲間がいるのね。なんだか、安心したわ」「え? どういうことですか?」 聞き返す僕には答えずに、笑子さんは「さあ、食べよう!」とトッピングの生クリームを頬張っていた。 彼氏でもないのに、同じカップのパフェを分け合うなんて、まずいかな、なんて考えていた自分が馬鹿らしくなるほど、笑子さんは楽しそうにパフェを食べ進める。「ほら、寺島君もがんばって食べないと、私が太っちゃうわよ」「そりゃ大変だ。あ、このメロン、もーらい!」「じゃあ、私はこっちのサクランボ、もらっちゃうわよ」 気が付くと、隣の席の女子がこちらを指さしてオーダーしている。向こうのカップルも…。 楽しい時間はあっという間だ。駅まで他愛のない話で盛り上がって、僕は焦っていた。僕の気持ち、いつ切り出そう。「笑子さん、あの…」「ん?どうしたの?」 キラキラした瞳が僕を捉えている。うう、かわいい! 思わず見とれていると、急にその瞳が掲示板に移ってしまった。「あら、もう電車が来ちゃうわ。ごめんね。続きは明日、会社でね。今日は楽しかったわ。ありがとう。じゃあ、また明日ね!」いつもの笑顔のまま、笑子さんは電車に飛び乗った。 ホームに残ったまま手を振ると、いたずらっ子のようにニカっと笑う笑子さんを、電車があっさりと攫って行く。 駅のホームの端まで歩いてみた。ふうっと、ため息が漏れる。笑子さんの乗った電車は、とっくに見えなくなっていたけど、なぜか僕の心の中は、ほっこりと暖かだった。 きっと明日も、8時30分には笑子さんは出社している。よーし、明日もがんばろう!おしまい