I just… 13
それからの日々はあわただしく残務整理に追われた。気がつけば夏季休暇前日。同僚たちが楽しげに帰って行った企画室に、ぽつんと綾部と美海が残った。美海は綾部から渡された書類を見て唇をかみ締める。出張先の千鳥公園美術館は千鳥山のふもとにあり、両親が向かう千鳥山温泉に向かうには必ず通る場所だ。「どうかしましたか?」「あ、いえ。実は、うちの両親は毎年夏になるとこの千鳥公園のすぐ近くの温泉地に行くんです。子どもの頃は私や弟もずっと付き合わされていたんですよねぇ。」「へぇ。家族で毎年温泉に行くなんて仲がいいんですねぇ。素敵なご両親だなぁ。」 でも毎年同じ古い旅館ですよ、と心の中で毒づく。 ある程度打ち合わせが進んだところで、西宮が顔を出した。「ごめんなさい。そろそろ戸締りしたいんだけど、いいかしら。出張に持っていく書類、忘れないでね。」「じゃあ、続きはご飯でも食べながらにしましょう」 綾部はそういいながらさっさと書類を片付けた。美海もそれに従って慌てて企画室を出る。「じゃ、いい夏休みを」「ありがとう。お二人には申し訳ないわねぇ。休み明けに代替の休暇を申請してね」 西宮はそういうと足早に帰っていった。足取りが軽やかなのは、何か計画があるからだろう。 食事をしながらの打ち合わせは簡単なものだった。「イベントの日程は4日ですが、準備がありますので前泊してもらいます。あと1日だけ予備日があります。スムーズにいけばイベントが終了しているはずなのですが、アクシデントがあったときのためにとってあります。」「つまり、ちょうど夏季休暇の日程とぴったり一致しているわけですね。」「もちろん、その間に土日が入りますので、その分の代休は夏季休暇とは別に取っていただいて結構です。」 申し訳なさそうに答える。しょうがない、がんばるか。休んだとしてもこの会場のすぐ上で温泉に入るだけであとは死にそうに暇な時間をやりすごさねばならなかったのだから。 部屋に帰るとスーツケースに荷物を詰め込んだ。これが恋人との夏の旅行だったらどれだけ良かっただろう。ふとそんな思いがよぎる。しかしそれも仕事ではしょうがない。おしゃれの必要もない出張だ。荷造りはあっさりと終わった。 朝になると美海はせっせと洗濯した。かんかん照りのお天気ならどんなに干してもお昼までには乾いてしまうだろう。柔軟剤の香りがふと心を和ませる。空を見上げると大きな入道雲がそびえたっていた。 午後になって洗濯物を全部片付けてしまうと、真っ白のTシャツとジーンズといういでたちに着替えた。今日は到着早々、会場での荷物運びなどの労働が待っているという。美海はスーツケースを抱えてまぶしい光の中に飛び出した。「あら、旅行?いいわねぇ、OLさんは。」 階下の主婦が笑顔で声をかけてきた。「いえ、仕事なんです。4,5日留守にします。じゃあ」 あら、と少し驚いた顔をした主婦だったが、それでもにこやかに手を振った。駅前では魚政の政義に声をかけられた。魚政も翌日から3日間は休暇になるという。「息子にせがまれちゃしょうがないや。ミッキーマウスと一緒に写真を撮るんだとさ」 歳の割りに深く刻まれた額のしわをより深くして、語る表情は迷惑そうでもあり、嬉しそうでもあった。 政義がミッキーマウスと並んでいる姿を想像して、美海はクスッと笑ってしまった。「親孝行してきなよ」 手を振って歩き始めた美海の後ろからそんな言葉が投げかけられた。そうか、誰が見ても実家への帰郷と思うんだなと納得する。 電車に乗って主要駅まで来ると、綾部がホームの向こうで手を振っているのが見えた。思わず手を振り返してから周りの視線に気がついた。こんな時期にこんな年頃の男女がそれぞれスーツケースを持って別々に現れたら、どういう関係だと思うだろう。 改めて綾部を見ると、今日はジーンズとチェックのシャツ姿だ。準備があるというので、汚れてもいい格好をと指定していただけのことはある。自分もジーンズにTシャツ姿なのだから、仕事には見えない。 階段を上がってホームまで行くと、書類に目を通していた綾部がふと顔をあげてどぎまぎと視線を泳がせた。 電車が入ってくると、ざわざわと行楽客が吸い込まれていく。それに混じって綾部と美海も電車に乗り込んだ。綾部が先に進み、それに美海が続く。指定席に収まると二人の荷物を綾部が荷台にあげた。前のシートでも男女が座り、男が荷物を荷台に上げていた。「ここからだと2時間はかかりますね。」「ゆっくり休んでてくださいね。向こうに到着したら最終打ち合わせに参加して、そのまま大道具の運び込みを手伝う事になりそうなのです。吉野さんは備品の準備をお願いします。リストはこれです。」 渡されたリストに目を通していると、前のシートからは楽しげな笑い声が聞こえてきた。合間には昼間の公の場にはふさわしくない声も混じる。こちらは仕事だというのにいい気なものだ、と顔を上げると隣では書類で顔を隠しながらも耳が真っ赤になっている綾部がいた。 しばらく走ると電車はトンネルに入った。ガラス窓に映る自分の姿をみて、ふと昨日の電話を思い出す。「あら、仕事なの?せっかく一緒に旅行に行こうと思ったのに。」「ごめん。でも仕事だもん、しょうがないでしょ?」「あ~あ、まさかアンタからそんなセリフを聞くとは思わなかったわ。」 諦めたようなあっけらかんとした口調で母親は笑っていた。「なにそれ?」「母さんのお父さんはね、仕事人間だったのよ。だから、父親と一緒に出かけた記憶なんて殆どなかった。母さん、それが寂しくてねぇ。結婚するときはちゃんとカレンダー通りに休みをもらえる人にしようって決めてたのよ。それなのに、まさか娘から言われるとはねぇ。」「ごめん…」 もっと捲くし立てられると思っていた美海は肩透かしを食らった気分だった。「しょうがないわね、仕事だもの。だけど父さんはきっと寂しがるわよ。アンタもそろそろお年頃だから、あと何回一緒に旅行に出かけられるだろうなぁって、昨日もそんなこと話していたのよ」 何事もないようにそのまま電話は切れてしまったけれど、心に何かが引っかかったまま、美海は仕事に出かけていた。 会場に到着すると、荷物を解く暇もなくすぐさま打ち合わせに参加した。出迎えたのは顧客である美術館の広報部長の元町だ。彼は日本人らしからぬ鼻の高さと鋭い眼差しが特徴で、担当者に全て任せてあると言いつつ細部まで口を挟む気難しい男だということは本山から確認済みだ。本山が手配した業者の人間やスポンサーも立会い、結構な人数が集まって最終打ち合わせが行われた。それが終わると、綾部は業者に混じってイベントの大道具の準備にかかり、美海は元町の秘書だという姫路という女性の手伝いに駆りだされた。やるべきことが与えられると時間はあっという間にすぎた。準備が終り、部屋に帰ったのは夜9時を過ぎた頃だった。ベッドに寝ころがって一息ついていると、小さなノックが聞こえた。「吉野さん、もう晩御飯食べましたか?」 綾部の疲れた声がしていた。そういえば忙しさに紛れて忘れていた。美海は慌てて身なりを整えて綾部に合流した。 ホテルのレストランはそれぞれのテーブルの真ん中に小さなキャンドルをともし、街のレストランとはちょっと雰囲気の違う時間を提供していた。しかし、なれない力仕事をした綾部にはそれを楽しむ余裕もないようだ。食事が終わった綾部に、念のために持参していたドリンク剤を手渡し、「あと4日!がんばりましょう!」と励ます美海だった。 それから4日間は時間が飛ぶように過ぎていった。そろそろこの作業にも慣れてきたと美海が思い始めた頃、イベントは無事終了した。 予想以上の来客数に元町の頬はゆるみっぱなしだ。「皆さん、ご苦労さまでした。今日は館長からお許しが出ているので、打ち上げパーティーを開催いたします。隣のホテルの広間に集まってください。」 みながその言葉に従って大広間に行くと、すでにしっかりと宴会の準備がなされており、館長の乾杯の音頭とともに打ち上げパーティーは始まった。「本当は夏休みだったんでしょ?申し訳なかったですねぇ」 すっかり打ち解けた姫路が美海に声をかけてきた。休暇を返上しているのは姫路も同じであろうと美海が健闘を称えあう。居合わせた人々と達成感を味わいながら、美海はこの仕事を引き受けてよかったと思った。 夜も更けて、それぞれが引き上げていく。美海も姫路が席を立つのにあわせて退散した。部屋に帰るとどっと疲れが押し寄せる。部屋の窓から見下ろす景色はぽつりぽつりと灯りが見えるだけで簡素なものだ。そんな中で等間隔に光っているのはロープウェイのライト。その上にあるささやかな光の集まりは、千鳥山温泉の集落だろう。 今頃両親ものんびりしているだろうか。私が仕事だと聞いて残念そうにしている父の顔が浮かんで胸が痛んだ。 シャワーを浴びてジャージに着替えているとにぎやかな声が聞こえてきた。声の感じからそれが元町部長と大道具の担当だった塩屋だと分かる。これから綾部の部屋で飲みなおそうとでも言うのだろうか。 すると、急にドアがノックされ「吉野さーん!」とご機嫌な合唱が響き渡った。美海は恥ずかしさでパニックに陥った。 慌ててドアを開けると、真っ赤に茹で上がった中年男が二人、べろべろに正体をなくした綾部を担いで立っている。「すまんねぇ。コイツ、思ったより弱くて歩けないんだよ。ちょっと見てやってくれないか」 そういうと驚いて絶句している美海にそれとばかりに綾部を投げ渡した。そして、二人は楽しげに、「綾部くん、がんばれー!」「ファイトだー!」などと叫びながらエレベータホールへと消えていった。 美海は驚きのあまりどうすることもできないまま二人を見送った。酒の匂いがぷんぷんしている綾部は完全に泥酔状態で、ともすればバランスを崩して倒れてしまいそうになる。とにかく、ソファに座らせて水でも飲ませなくちゃ。美海は引きずるようにして部屋の奥へと酔っ払いを運んだ。「チーフ!しっかりしてください。」「ああ、吉野さん。僕は悔しいんですよ。元町部長に意気地がないなんて言われてたまるかー! 僕だって、言うときはちゃんと言えるんですから。よ、吉野さん。僕はねぇ。僕は…」「チーフ、しっかりしてください。ほら、そこのソファに座って…。きゃっ!」 ふらふらした綾部の足が美海の足と絡まって、二人は折り重なるようにベッドに倒れこんだ。「吉野さ~ん。酔っ払ってしまいましたぁ。せっかくかっこよく告白しようと思ったのに、残念でありまぁ~す。」「チーフ…。く、苦しい」 綾部は緩みきった顔をゆっくりと上げ、美海がすぐ下にいるのに気づいた。「吉野さん…。」「えっ?!」 美海が驚いている間に綾部が唇を押し付けてきた。暑苦しい息が顔面にかかる。うっ!お酒臭い!それなのに、体の奥から温かな感情が沸き起こってくるのはどうしてだろう。 再び顔を上げた綾部は、そのまま隣に倒れこんで静かな寝息を立て始めた。体を起こして、美海は自分の唇にそっと手を当ててみた。心臓がバクバクと音を立てている。夢なのか?いや、夢ではないだろう。気持ち良さそうな寝顔がすぐとなりにある。なんとか頭を冷やしたくて、アイスボックスを持って部屋を出た。ガラガラと氷を詰め込んで部屋に帰るが、綾部はさきほどの格好のまま寝入ってしまったようだ。棚にセットされたグラスに氷とミネラルウォーターを入れて一口飲んでみる。冷たい感覚がするするとのど元を通り過ぎ、胸の奥までもきゅんと締め付けた。エアコンの効いた部屋は寝るには肌寒い。どうにも起きそうにない困った酔っ払いの隣にそっと横たわり、美海は綾部の寝顔を見つめた。酔っていたとはいえ、綾部のキスは美海の心を大きく揺さぶったようだ。