桜の夢物語 12
その時、左腕の実里が急にしゃべり出した。「まんま。まんまー。オウ。オウ。まんま」 春花はハタと目を覚まし、置かれている状況に気が付いてくれた。「カイ!実里を離さないで!」 春花はそう叫ぶと目の前の岩肌につかまってなんとかよじ登る。「実里、ありがとう。あなたは命の恩人よ」 上まで上がると、春花は愛おしそうに実里を抱きしめた。 俺は大きく深呼吸して息を整えると、さっきまでの突風がウソのように穏やかな桜を見上げた。群生する中で、ひときわ大きかった桜の木が、恐ろしいほどに花びらを落し枯れ果てていた。桜はもう語りかけては来ない。終わった。俺の中でそんな言葉がぽっかりと浮かんだ。「湖に行ってみよう」 俺が言うと、春花も頷いた。静かな水面にすっきりと晴れ渡った空が映っていた。「お父さん。春花です。無事に赤ちゃんを生む事が出来ました。実里って言うのよ」「春花、お母さんを許してくれ。全ては桜の遺伝子がさせている事なんだ。それにしても、よく乗り越えてくれた」 いつもは穏やかな湖が、ずいぶん感傷的になっていた。「よかった。これで、思い残す事は何もないよ」「お義父さん。俺達、呉服屋のおじいさんに会ってきたんですよ。そして、この実里のお宮参りをおじいさんの仕立ててくれた着物を着せて、おじいさんと一緒に行ってきました」 湖は風もないのに微かに揺らめいた。「そうか、親父は元気にしていたか。ありがとう。実里、元気に育てよ。春花が桜の遺伝子に打ち勝ったのなら、私はもう、ここで語る事もないだろう。カイ君。後は任せたよ。娘と孫をよろしく頼む」 小さな揺らめきが、湖の水面を俺達の前から対岸に向けて遠ざかって行った。「お父さん」 春花が声を掛けても、もう湖は答える事もなかった。「逝ってしまったんだね」「うん」 俺達は、しばらく湖を見ていたが、やがて実里のミルクをせがむ声に急かされて山を降りた。春花は途中、1度も桜を振り向かなかった。ただ前を見つめ、実里を見つめ、そして俺をみつめながら歩いていた。 駐車場まで降りてくると、山小屋のおじいさんが待っていた。「無事に降りて来たか」 おじいさんはホッとしたような、驚いたような複雑な表情で俺達を迎えた。そして、背中に背負っていた籠をおろすと、中から山菜や野菜を取り出して俺達に渡した。「どうもわしは娘運が良くないようだ。どいつもこいつも勝手に出て行きやがって、嫁に行くなら行くと報告せんか」 怒ったような拗ねたようなそれでいて、嬉しいような。おじいさんは困った顔をしていた。「わしの作った野菜だ。煮物にでもするといい。辺鄙なところだが、たまには顔を見せに来い。」 俺達にそう言うと、そっと実里に近づいた。「実里、1人暮らしのじいさんにお前を喜ばすような物は用意できんが、こんな物でも持って行ってくれ」 おじいさんが差し出したのは、竹ひごと和紙で作った風車だった。俺達が上に上がっている間にでも作ってくれたのだろう。風車はおじいさんの手作りだった。実里は迷う事無く小さな手を差し出し風車を握り締めると、嬉しそうに声を上げて笑った。おじいさんは、その笑い声だけで一気に救われたように満面の笑顔になって、俺達を見送ってくれた。 帰りの車の中で、春花がポツリとつぶやいた。「私、女優業を辞めるわ。私はもう、シェリーでも桜の精でもないもの」「そうか」 俺は、それ以上何も言わなかった。ただ、それを聞いた西村さんのショックに引きつった顔がちょっと頭を掠めた。俺が苦笑いをしているのを見つけて、春花は西村さんの事を思っているんでしょっと言い当てた。「西村さんなら大丈夫よ。もう、次のタレントを育てているはずよ」 まがい成りにも厳しい世界にいた春花は、業界の流れの速さを熟知しているようだった。 家に帰ると、実里はおもちゃのマイクを握り締め、楽しげに振り回している。「もう歌手のまねごとができるのか」 俺が驚いて言うと、俺のマネをしているのだと春花は笑った。「パパの出てるテレビは、絶対見てるもんね」 春花は実里を抱きあげて、得意げに俺を見た。俺は目の前にある平凡でありきたりな幸せが、どれほど大切か思い知らされた気がして、2人をいっぺんに抱きしめた。「無事に帰れて、よかった」 そのつぶやきは俺の本心だった。春花は穏やかに微笑み、実里は澄んだ瞳で俺を見つめた。いずれこの子にも、好きな男が現れるのだろうか。その時は、あの湖のような奥行きのある大人になって、実里の選んだ男をしっかり見定めてやろう。見えない何かではなくて、娘を守り育てた父親として。おしまい。