童謡のおはなし 10 春の小川
《春の小川》 作詞 高野辰之/作曲 岡野貞一 春の小川は さらさら行くよ 岸のすみれや れんげの花に すがたやさしく 色うつくしく 咲けよ咲けよと ささやきながら 春の小川は さらさら行くよ えびやめだかや 小ぶなのむれに 今日も一日 ひなたでおよぎ 遊べ遊べと ささやきながら誰もが一度は口ずさんだ事がある歌だと思いますが、この《春の小川》は大正元年に尋常小学校の4年生の唱歌として発表された歌です。春の童謡としても代表的な曲で、私たちの【お出かけ童謡コンサート】の時も、春の小川をイメージした川の音からコンサートが始まりますが、口ずさむだけで、春の小川が思い浮かぶような素敵な曲です。直ぐに連想させてくれるこの《春の小川》の歌詞は、東京都渋谷区の代々木公園の近くを流れていた河骨川(こうほねがわ)をみて作られたと言われています。残念ながら、現在は河骨川はコンクリートで覆われてその姿を見ることは出来ませんが、下流の渋谷川は現在も渋谷駅近くで見ることができます。この曲は、数多くの童謡を世に出した作詞の高野辰之、作曲の岡野貞一のコンビによって作られた曲ですが、この二人による曲は《春がきた》 《もみじ》 《故郷》 《朧月夜》 《日の丸の旗》などもありますが、どの曲もお馴染みの曲です。明治9年に長野県生まれた高野辰之は23歳で上京し、30歳を過ぎてから代々木山谷という場所にに居を構えました。明治42年に文部省小学唱歌集の編纂委員となり、その後この歌が発表されますが、当時は自宅から近いこの河骨川を娘さんと良く散歩にきていたそうです。明治末のこの近辺は、樹木が生い茂り、牧場や果樹園なども点在するのどかなところだったようで、代々木山谷という町名からもその様子が伺われます。現在の代々木3丁目になりますが、その地には【高野辰之居住跡】が立っています。また、この河骨川の直ぐ横は陸軍の代々木練兵場(現代々木公園~代々木体育館)で、それこそ民家も少なく樹木がうっそうとしていたようです。昭和2年になって小田急線が開通したときも、線路脇には河骨川が流れていましたが、次第に近隣は宅地へと変わっていったようです。その後昭和17年になって、小学校3年生の唱歌になったことから、低学年児童にもわかり易いように…と歌詞が一部変更され現在も歌われる歌詞になりました。終戦を迎え、陸軍練兵場はアメリカ軍のキャンプ地に変わりましたが、河骨川はまだその姿を見ることが出来ました。ただ下水対策のないままの急激な宅地開発の為、さらさら流れていた小川は次第にどぶ川へと変わっていったそうです。その後、オリンピックの開催が決まると、米軍キャンプ地がオリンピック会場となり、NHKや渋谷公会堂が建ち、同時に河骨川や宇田川などは暗渠となり、川の流れを見ることが出来なくなってしまいました。代々木で生まれた春の小川ですが、現在もその名残りを見ることが出来ます。小田急線参宮橋駅の近くには、【春の小川】の石碑がありますが、石碑の歌詞は大正元年に作られた当時の歌詞です。 春の小川は さらさら流る 岸のすみれや れんげの花に にほひめでたく 色うつくしく 咲けよ咲けよと ささやく如く そしてこの石碑の近くには、【はるのおがわプレーパーク】と言う名の公園がありました。既存の遊戯具ではなく、手作りの木のジャングルジムをはじめ、タイヤや箱などを用いた遊び道具があり、土がいっぱいの公園です。ボランティアのスタッフも常駐しているようで、子供が小さかったら、間違いなく連れて行ったと思われるくらい、素敵な公園でした。この公園近辺を歩いていると目に付くのが、「春の小川→」という電柱の案内です。 電柱の矢印のまま歩いてゆくと、「春の小川 この通り」と案内が変わりましたが、特別建物や案内看板がある訳ではありませんでした。ただ、道路に連なるマンホールが、かつて河骨川だった事を示しているようです。 また、「春の小川 線路沿い」という案内もありましたが、小田急線の線路脇がかつての河骨川で、ここにも多数のマンホールがありました。 この河骨川を上ると宇田川になり、更に渋谷川に注ぎますが、渋谷駅近くの渋谷川は暗渠への入り口というようにポッカリ口を空けているようでした。 今や典型的な都会の汚れた川のようになっていますが、かつてこの先にはれんげの花が咲き、えびやめだかが泳いでいたと思うと、川の流れよりも時代の流れを感じてしまいます。お星さまの贈りものhttp://www.ohoshisama.info