エヴァンゲリヲン新劇場版:破
「次第に壊れていく碇シンジの物語」 序の最後に流れた予告編のナレーションである。 「序」は第壱話から第六話までのリメイクであった。序盤の見せ場であるヤシマ作戦に物語を収束させるオーソドックスな構成だがオリジナルを越えた迫力とサスペンス感あふれる描写を作り出した、と思う。 が、作品の筋には大きな変化は見られない。 ヤシマ作戦の成功、で終わる物語はポジティブでありとても明るい。 「破」ではその物語は壊れていくのだろうか? その点に注目して映画を観た。 結論から言うと「破」という映画は予告編の不吉な言葉をきっぱりと否定してみせている。 青春ドラマ、サスペンス、メカアクションの高い完成度と娯楽性。垣間見えるマニアックな設定と遊び。 壊れることなくむしろ王道の熱血ドラマを思わせるクライマックス。 これでは「あの」エヴァンゲリオン・・・じゃないのではないか・・とまで思わせる展開である。(注1) しかしながら・・・それは本来エヴァンゲリオンの目指したもの、ではなかったか。 もともとのエヴァンゲリオンの展開ではアスカが登場してからの1クール分、TVの第弐拾話迄は謎や設定をおりこみながらも娯楽性の高いエピソードが多い。 その後アスカがプライドを喪いレイが消滅する僅かな話数(弐拾弐~弐拾四・・・たった三話)でエヴァンゲリオンは「壊れていく」。 「破」はそれとは全く反対のベクトルのまま突っ走り誰もみたこともないエヴァ、を現出させた。 では何故エヴァンゲリオンとエヴァンゲリヲンは大きく異なる展開を迎えることになったのか? ※今更言うのは遅いかもしれませんが・・・以下内容に触れていきます。出来ればご覧になってからお読みください 大きな変化を象徴するのは名前までかわってしまったアスカ、である。 アスカは基本的には元の通りいいたいことを言うタイプだが他者に頼らない。何しろここでは加持に憧れるアスカ、という関係性も綺麗さっぱり抹消されている。 その点を含めて他人と表面的にしか接触しない、できないアスカがより強調して描かれている。 彼女はもう一人のシンジであり、ミサトが彼女を預かるのはTV版よりもある意味必然にみえる。 そんな序盤はもうアスカの物語といっていい。暇があると携帯ゲームをいじる彼女が他者と関わることでどう変わっていくか。 第拾弐話「奇跡の価値は」の娯楽性を大きく膨らませた展開(これを序盤の見せ場にしたところは感服)の中ひとりでは勝てなかったことを思い知り傷つくアスカのプライド。 もとの展開では失敗が焦りを生みさらに萎縮したアスカは「壊れる」のだがここでのアスカは違う。 戦いにしか・・エヴァに乗ることにしか自己の価値を見出せなかった彼女はシンジら周囲の人間と関わることで大きな心情の変化がみられる。それが弁当や料理だったり皆との水族館行きであったりするのだがこれらの普通の描写が丁寧に描かれて心地良い。 最大の転回点がエレベーターでの綾波との会話だろう。綾波自身が前作からすると綾波じゃない位の変化を遂げているのだが 同じようなシチュエーションでありながら全く違うやりとりと結末を迎えるこのシーンはこの映画そのものを象徴する。 指の絆創膏の数で負けを悟るアスカはなんとも可愛らしいではないか。 アスカはここではっきり変わる。そしてミサトとの会話が感動的に胸に迫る。 「誰かと話すって心地良いのね、知らなかった」 「この世界にはね あなたの知らないとってもおもしろいことがたくさんあるのよ」 ミサトとアスカ、TV版では何も紡げなかった二人がここでは親愛の情で結ばれる。 象徴的なのでアスカの事を書いたがシンジ,綾波も同じである。 「序」、そして今回の「破」でのシンジのかかわり合いの中で綾波は大きく変わる。 綾波の変化はアスカをシンジをそしてあのゲンドウでさえも変えていく。 シンジが戦わない、戦うのON-OFFは加持の台詞(決戦より前に移動している)ではなくもっと直裁的に綾波、である。これはわかり易い(注1) だからこそミサト、自分の願いを少年少女に託すしかないことを後ろめたく感じているミサトが感情を迸らせて叫ぶ台詞が胸を突く。 「いきなさいシンジ君!誰かのためじゃない、あなた自身の願いの為に!!」 シンジの戦い。暴走ではなくその願いが呼んだエヴァの覚醒。 「私が消えても代わりはいるもの」 「違う!綾波は綾波しかいない」 このやりとりが全てだろう。人に変わりはいない。その気持ちが人を動かす。かくして・・・・第拾九話「男の戦い」どころか第弐拾参話「涙」をひっくり返し、いやその先までを含めてひとつの大団円を迎える。 そこにたどり着いたシンジと綾波・・・ああ、これやったらもう終わりじゃないのか。 二人の物語はある意味でここで完結してしまっている。 この先の「急」ならぬ「Q」、そして「完結編」で描かれるものが何なのか?とても気になる。 そこで・・・マリ、である。 まるで別の世界から来た様な楽天的な様子の彼女は本作の中で大きな違和感を与える存在である。 「365歩のマーチ」を歌いながら「すっげー痛いけど面白いから、イイ!!」とのたまいながら戦うマリは他のエヴァのパイロットとは大いに異なる。 エヴァの世界に別の世界の人間が混じりこんだ異物感は否定できないが最初の戦闘、屋上、そして裏モードと彼女の出ている場面は刺激的で面白い。(実は映画を繰り返し観て常に面白いのはマリの出ているシーンなのである・・) やはり第10使徒との戦い、「あと・・・一枚ーっ」が圧巻。 「身を捨ててこそ浮かぶ瀬も・・・」いい台詞だ。 さて・・・庵野作品の面白さは細かい遊びにある・・というのはいうまでもないことだだろう。 今回もミサト絡みで遊んでいる。携帯音もそうだがあの車は・・・ねえ。 その他月面基地とかもそうだが最後の第十使徒との戦いは色々な部分が『ガメラ3』・・だと思います・・ここは遊びじゃないのかな・・。 賛否あるようだが「彼氏彼女の事情」の音楽の流用はエヴァの復讐戦のようにみることが出来る作品故に本作において重要な日常やコメディシーン上手くマッチしていたように感じた。 「今日の日はさようなら」も「翼をください」も昭和40年代の歌謡曲も含めいい使い方をされていると思う。「翼をください」はこうでしかあり得ないしアイロニカルな「今日の日はさようなら」の使い方も悲劇性が一段とあがっている。(注3) 最後にカヲルの台詞。 「今度こそ君だけは、幸せにしてみせるよ」 新劇場版のエヴァンゲリヲンはこの台詞からすると過去のエヴァンゲリオンとパラレルに繋がっているのでは・・と思える。 この後の物語はまさにそこが描かれることに意味があるのかもしれない。 ・・・それとも次第に壊れていく碇シンジの物語はここから始まるのか・・・・ここまできた以上そうは思えないのだが・・。 「たったひとつの冴えたやりかた」・・・「Q」及び「完結編」がいつになるのかわからないが(そこが一番問題だ)・・・それが本当に観られるハズ・・今そんな期待をしている。 (注1)本来の展開ではアスカも2人目(?)のレイも「いなくなる」予定でそこへカヲルが・・・という展開だったらしい・・これだと「壊れていく」展開にしかなりそうにない。 (注2)シンジが再度エヴァに乗る、乗らない云々については劇場のパンフレットでの鶴巻監督のインタビューが興味深い。シンジがエヴァに乗るきっかけとしてはTV版の方が感動的であり説得力があるのだが映画版の方が不自然さがなくすっきりしわかり易い・・・。 (注3)予告編のアスカの出番はない方がよかった?ここはサービス過剰かも。