カテゴリ:近代別荘・別邸史
「萬松園」川上音二郎・貞邸五つの疑問
川上音二郎(1864-1911)は、さまざまな職業の遍歴の後、当時の自由民権運動とも連動し、街頭や芝居小屋で政治演説を始め、当時の世相を風刺する「オッペケペー節」は一世を風靡した。その後、芝居の近代化を求め欧米へ。 一方、妻貞奴(1871-1946)は、音二郎とともに西洋演劇を参考に芝居の近代化に取り組み、当時、歌舞伎の女形役者が演じていた役を初めて女性として演じたのが貞奴。明治36年、明治座で「オセロ」の上演。貞奴が日本の女優第一号となった。 川上夫妻は、茅ヶ崎市美術館が建つ高砂緑地に約100年前に住んでいたと云われている。その自邸「萬松園(ばんしょうえん)」は、日本における本格的な 演劇活動の準備をはじめたところ、貞奴が日本の女優第一号となる覚悟を決め、「オセロ」のヒロイン役を演じるために稽古したところとしても知られている。 川上音二郎没後100年・川上貞奴生誕140年記念事業実行委員会案内引用文 その「音二郎の家屋敷が何処にあったか?」現在もいまだ未確定である。2011年1月18日、川上音二郎没後100年・川上貞奴生誕140年記念事業実行委員会が設立された。以後(音・貞実行委員会)は、当時を偲ぶ音二郎井戸が佇む緑地の一体何処に当時の建造物があったのか探索チームを結成し、あらゆる資料に基づき捜索を始めた。 捜索の開始、資料収集へ 第一の疑問「吉永良延」とはどんな人物なのか 小説「女優貞奴」脚注 156頁~157頁、第5章 女優開眼より 慈強丸の主人(あるじ)・吉永良延という芝居好き知人の世話で、相模湾に面した茅ヶ崎に、約三千坪の松林を手に入れた。慈強丸の主人(あるじ)・吉永良延とは? 第二の疑問「萬松園」の名付け親 やがて松林の中に和洋折衷の住居が建ち、伊藤博文によって「萬松園」と名付けられた。はたして萬松園の名付け親とは? ? 第三の疑問、新築の家が帰国後2ヶ月半で建築が可能なのか? 高砂下(現美術館)の旧土地台帳登記名は、貞(定)記帳最終名は貞の縁者、幡豆寅之助とは一体誰なのか?また、登記名が音二郎でない理由とは? 伊藤町長に宛てた戸籍についての書簡、本籍が南湖にあった理由とは? 第四の疑問、当時のヨーロッパに見られる庭園観に影響か? 同時期、平塚に居た村井玄斎の庭園観にも同じ傾向がみられる「萬松園」の姿とは? 第五の疑問、団十郎葬儀の道普請 音二郎一行は、どの経路で団十郎を訪ね葬儀に何処を道普請したのだろう? 五つの不思議そして、二つの仮説をたてた。 第一の仮説、時の村長伊藤里之助は、別荘誘致開発の一端としてやがて不毛の高砂から白砂青松となる別荘体験のできる宿をつくった? 第二の仮説、「萬松園」の名付け親は伊藤? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年09月17日 18時15分23秒
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