カテゴリ:近代別荘・別邸史
今年、3月31日に茅ヶ崎市史資料集第6集が発行された山宮藤吉日記である。
彼は、地元茅ヶ崎萩園の出身、文久二年(1862)に生まれ昭和8年(1933)71歳でなくなっている。村長、県議会員、衆議院議員として政治活動を行った。 当時の県政を担う小泉純一郎元首相の祖父小泉又次郎、河野洋平元衆議院議員の祖父河野治平らと並ぶ政治家であったと伝えられている。しかし、藤吉の嗣子の早世もあり、歴史のなかに埋もれた存在となった。 この度の市史編纂を機に彼の残した多くの文章が明らかになり、それらを分析することにより、明治中期から昭和初期にかけて神奈川県政、この国の政治勢力の変革が見えてくる一冊となっている。 さて、今回の資料の中で私たちが特に目を引いたのは、明治29年から明治36年当時の日記だ。つまり、川上音・貞に関する件が幾つ出ているかの探索にある。 資料は、万人に公開されなければ只の紙くず。公開されてはじめて資料となる。この日記の他に石上憲定の日記があるが一冊6000円と高価な一冊だ。この度の音貞探索では、新たな発見が幾つかみられた。 山宮藤吉日記、明治31年2月24日。「萬松園に狩野信矩ノ□画工来ル」とある。 この件を日記に記すということは、藤吉やその身辺にとって価値のあることの出来事だったと想像できる。気になるのは、狩野信矩ノ□画工。「ノ□」の部分が読めない。想像するに狩野信矩の関係者ととらえるのが自然そうだ。 明治30年8月7日花房義素から伊藤里之助へ「萬松園」に滞留手配と人数確認をしている。 翌年、明治31年2月24日に「狩野信矩萬松園□画工来る」と山宮藤吉日記に記されている。 これらの事実をふまえても音二郎・貞が明治35年この茅ヶ崎に来る前には、既に「萬松園」が存在していたということが明らかになった。また、新たに新事実が明らかになった。これでますます「萬松園」がいつから存在し、どのように音二郎・貞の所有になったのか依然謎のままである。 ハッキリしているのは、「萬松園」は、明治30年から在った。しかも「萬松園」の名称も明治30年から在った。では、音二郎が命名した「萬松園」は、敷地内のどこにあったのだろうか。当時、この二棟が同地にあったのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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