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2009年11月29日
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カテゴリ:美術展

1)105歳 山口安次郎作 能装束展―心と技の饗宴―:相国寺承天閣美術館

西陣織の人。まさに絢爛豪華。
作品はデザイン帳としてみても面白い。

手間の掛かる手法だが軽くて演じやすい織り方だそう。
凄い手作業なのに夜にはまたトンボ玉でネックレスを作ったりする。

科学合成染料と草木染、どちらも実験。
舞台で演じた時に栄えることが一番、という立場。

以下美術館HPより

105歳現役織職人
山口安次郎。西陣に生まれ育ち、千年の都・京都の伝統と文化の華のひとつである能装束を、現在まで制作し続けている織職人であります。
本年10月1日に百五歳を迎える山口安次郎は、「晴耕雨織」と自らの織三昧の日常を表現しています。
今もその手を休める事はなく、「わしの織った装束は能舞台で使ってもらってこそ意味がある」と、常に意匠・素材・織技への追及に余念がありません。
実兄、故山口伊太郎も「これほど丁寧な仕事は無い、誠心誠意、心を込めた織物、その技の右に出る織師はない」と、弟を評しております。
この展覧会では、山口安次郎の「心と技」の結晶である百領を超える能装束作品を展観し、古都・京都に脈々と息づく「日本の伝統文化」、それを支える山口安次郎の「心と技」を、未来に「生きた形」で伝える事を願おうとするものです。
さらに、能楽の大庇護者であった足利家由来の相国寺の管長、有馬○底貎下のもと相国寺境内に、観世宗家・金剛宗家・ 片山九郎右衛門・梅若玄祥の各能楽師が一同に会し、百五歳 山口安次郎制作の能装束を用いる公演「相賀の能(しょうがの のう)」が企画されています。
これは将に能の歴史の一頁を飾る行事となり、能楽界のみならず広く芸能の世界においても、より高い評価を受けることとなるでしょう。

2)日蓮と法華の名宝:京都国立博物館

こちらはちょっと地味。
文字で描いた曼荼羅とか、信徒さんにはたいそうな価値なんだろうが
私はまったく無宗教なのでよく分からない。

・法華文化の展開
・日蓮とその時代
・京都開教と西国への展開
・京都受難の時代
・復興と近世文化の開花

11月中旬の日曜の訪問。
JTBが集団客を連れてきていたが、それでも会場は空いている。

紅葉シーズンなのかこの日の京都は大混み。
1→2、に行く途中に双葉の豆もち買おうとしたら
長蛇の列で諦めた。

以下美術館HPより

文応元年(1260)、39歳の日蓮は、国家の危機を憂えて、『立正安国論』を著し、鎌倉幕府前執権の北条時頼に献じます。
日蓮は、これらが原因で後に佐渡へ流され、苦境を忍ぶことになります。その一方で、この『立正安国論』で予言した「他国侵逼難(たこくしんぴつなん)(他国が攻めてくる災難)」が、蒙古襲来(文永・弘安の役、1274年、1281年)という現実となったことで、彼は法華信仰を確信するに至ります。
平成21年は、それから750年の節目の年に当たります。

  本展はこれを記念し、『立正安国論』を軸に、鎌倉新仏教の一翼を担った日蓮の足跡をたどり、その門下の活躍、特に孫弟子にあたる日像の京都布教以降、公家文化と並ぶ町衆文化の形成に果たした日蓮諸宗の大きな役割を紹介します。

  日像は三度の京都追放にもめげず、帝都布教の悲願を達成し、大覚大僧正妙実(だいかくだいそうじょうみょうじつ)という優れた後継者を得て、その基盤が確立しました。やがて、法華信仰は室町時代を通じて町衆を中心に広がり、京都は「題目の巷(ちまた)」と称されるまでになりました。

  反面、勢いが強まったことで、旧仏教界の中心であった比叡山と関係が悪化します。天文五年(1536)、ついにその対立は天文法華の乱として火を噴き、京都撤退の憂き目をみましたが、ほどなく帰京が許されてから、再び勢いを回復します。

  その後、天正七年(1579)の織田信長による安土宗論での浄土宗への敗北、文禄四年(1595)の豊臣秀吉の方広寺大仏殿千僧供養に際して日蓮諸宗への出仕の強要による宗内の動揺など、政治と宗教という難しい問題にも遭遇しました。
ちなみに、当館の敷地には、まさにその方広寺の遺構の一部が含まれており、史跡に指定されています。
  このような曲折を経つつも、今日なお、その伝統は京都十六本山を中心に受け継がれており、それを支えたのが町衆だったのです。

  この町衆が京都近世文化の形成に大きな役割を果たしたことは知られていますが、名だたる近世の芸術家たちが法華の信者だったことは意外と知られていません。
たとえば、狩野元信、長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山、彼らがみな法華信徒であったと聞くと「エッ!?」と驚く方も多いのではないでしょうか。
つまり、狩野派、長谷川派、琳派といった画派は、この法華を媒介にした京都町衆の濃密な人間関係から形成されたともいえるのです。
 
本展では、法華信仰の遺品はもとより、これら近世日本美術の名家の優品も展示することで、日蓮諸宗と京都町衆文化の奥深さを再確認するものです。
こうした趣旨の展覧会はあまり例がありませんでしたので、十六本山を中心に事前調査を行い、多くの新発見に結びつきました。中には重要文化財級の作品もあり、数多くの初公開作品もみどころと考えています。多くの方のご来場をお待ちしています。







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最終更新日  2009年12月08日 21時35分36秒
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