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カテゴリ:光圀の諸国への旅
江戸時代中期の名奉行といえば、大岡越前守忠相(1677~1751)なのではないか。延宝5年(1677)大岡家の分家の一つ大岡忠高の三男に生まれた。10歳の時、同族の大岡忠真の養子となる。養父病死のため、1700年(元禄13年)家督を継ぎ、寄合旗本無役となった。 書院番、目付などの役職を経て、1711年(正徳元年)に従五位下能登守叙任した。1712年(正徳2年)伊勢山田奉行となって、在任中に山田と松阪の住民の訴訟を裁いたが、その公正な裁きぶりが当時の紀伊徳川家藩主徳川吉宗に認められた。
1716年(享保元年)将軍就任の吉宗によって、1717年(享保2年)江戸町奉行、越前守となった。皆ご存知の町火消制度「いろは」47組の創始、目安箱、小石川養生所の設置、株仲間の公認などの享保の改革を推進して、功績を残した。1736年、寺社奉行。1748年、三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し大名に。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相一人だけだ。1751年、病気により辞して、同年6月吉宗が没し、12月忠相も死去した。大岡忠相が書いた「大岡忠相日記」は、吉宗時代の重要な史料となった。 (参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) TBSは1970年から1999年にかけて、大岡越前の裁きをテーマで、加藤剛が演じる「大岡越前」を放送していた。テレビ朝日も今年の四月から六月まで月曜時代劇で北大路欣也が演じる「名奉行 大岡越前」を放送していた。 東京メトロ丸の内線または銀座線の赤坂見附駅から青山通りに沿って、まっすぐ行くと、右側に豊川稲荷別院がある。豊川稲荷の本院は三河(愛知県)にあるが、大岡忠相は領地の近い豊川稲荷に厚く信仰するため、分身を赤坂一ツ木の自邸に移した。そして、文政十一年(1828)、大岡の子孫によって、現地に勧請した。本尊は千手観音だという。本堂の両側には、一対の狐が鎮座するが、この鎮守である稲荷の人気が高かったので、寺だが稲荷と呼ばれる。 本堂の左側には、六角堂が建っている。それは「大岡越前守忠相公御廟」だ。「江戸、東京散歩35選」という本によると、ここは大岡越前守の墓所だというが、大岡越前守の本当の墓所は大岡一族の墓所とともに、茅ヶ崎市の浄見寺にある。それにもかかわらず、かつて庶民に慕われた名奉行だったので、「大岡越前守忠相公御廟」には線香と花々が絶えない。 また、豊川稲荷に着く前に、青山通りの左側に、一ツ木通りがある。その近くの角は大岡越前守の邸だった。 豊川稲荷別院 東京都港区元赤坂1-4-7 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.09.11 20:40:20
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