|
カテゴリ:光圀の諸国への旅
五條天神社を出た後に、そのまま根津方向へ向かった。わかりにくいが、今回地図をちゃんと見ているので、無事に上野東照宮への道を見つけた。
気づきにくい不忍口鳥居。明治6年(1873年)に江戸城内の紅葉山東照宮より移築された。 正面の鳥居なら上野公園から行ったほうがわかりやすい。 神門。参拝客よりも観光客が多いようだ。 唐門への道。天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内に創建した多くの伽藍の中の東照社(寛永4年創建)が上野東照宮の起源だという。 正保3年(1646年)に朝廷から正式に宮号を授けられたため、「東照宮」となった。 金色の拝殿と唐門は慶安4年(1651年)に三代将軍家光の命令で造営替えられた。日光という遠いところへ参拝できない江戸の人々のために、日光東照宮に準じた豪華な金色殿を建立したという。唐門への道にある灯籠をはじめ、約250基の灯籠はこの造営替えで全国の大名から競うように奉納されたものである。創建当初の祭神は「東照神君、天海僧正、藤堂高虎」であったが、今は、徳川家康(東照大権現)、徳川吉宗、徳川慶喜。上野戦争、関東大震災、東京大空襲でも無事だった上野東照宮は強運の象徴ともなった。 唐門の近くにある親子虎の石彫。作者・奉納時期は不明であるが、徳川家康の生まれ年の干支であるにちなんだ彫刻という。 神楽殿は明治7年に奉納されたもの。 五重塔は仏教の施設で本来東照宮所属であったが明治の神仏分離令により、現在の上野公園全域を寺地としていた寛永寺の所属となった。徳川将軍家の菩提寺として知られる寛永寺は上野戦争により焼失され、寺地の大半が公園用地として没収され、上野東照宮から離れた地で再建された。この五重塔は今東京都所管という。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.04.30 13:56:04
コメント(0) | コメントを書く
[光圀の諸国への旅] カテゴリの最新記事
|