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哲学・思想

2013.03.12
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カテゴリ:哲学・思想

 学生時代に書いた論文(末尾)を続けて紹介します。(前記事) 

〔以下、引用・紹介〕 

 ・・・つまり『存在と無』において、状況というのはそれ自体では無意味・無構造的な所与であったが​​においては、それが客観的な意味・構造をそなえた社会的・歴史的状況としてとらえられているのである。

 諸個人(及び諸集団)の実践が客体化・固定化すると、それ自体で意味・構造を持った実践的惰性態(社会・経済構造、生産様式等)として存続することになる。人間は、先行する世代の実践によって形成された様々な実践的惰性態によって規定されているのである。

 実践的惰性的分野というのは、それ自体で意味・構造をそなえた社会的・歴史的状況というべきものであるが、真に具体的な人間というのは、このような状況によって深く規定された社会的・歴史的存在なのである。

 それでは『存在と無』における人間観は放棄されたのであろうか。決してそうではない。人間は「状況における自由」である、という『存在と無』における人間観を彼は一貫して保持している『弁証法的理性批判』は、前著においていまだ抽象的であった状況把握、人間把握を(すでに意味・構造を持った)社会的・歴史的状況における社会的・歴史的人間として真に具体化したのであって、「状況における自由」という人間観を放棄したわけでは決してない。

 確かに、社会的状況というのは乗り越えがたい重みをもって人間に迫ってくる。しかしながら、『批判』において彼自身が言っているように「自由な活動こそが、彼を押しつぶす一切のもの(・・・)を彼なりに自分の自由の中でとらえなおす」(注2)のであり、「自由は自由の環境の中で、この乗り越えがたさを〈のりこえられるのりこえがたさ〉として開示する」(注3)のである。ここには明らかに、〈状況における自由〉という彼の人間観が生きている。

 そしてまた、確かに人間が社会的・歴史的状況(そして、それによって深く規定された家庭をはじめとする諸集団)によってつくられる、ということは事実であり、このことは『批判』の中でもはっきり述べられている。

 しかしながら、パンゴーとの対談でサルトルは次のように言っている。

 「本質的なことは、(すでに)人間がつくられているそのありかたではなく、つくられているそのあり方でもって人間が何をつくるのか、ということなのです。(・・・)人間がつくるものとは、歴史自体であり、全体化する実践の中で、それらの諸構造を現実に乗り越えることです。」(注4)

 このように彼は、社会的・歴史的状況の重みを真に理解した後においても歴史をつくる人間の主体的実践を強調しているのである。『批判』において彼が展開したダイナミックな集団論というのも、人間が集合態的な無力さをつきやぶって形成する共同の実践というものを記述することによって、歴史における人間の主体性・実践的活動性を強調したものだ、ということができるだろう。

 以上のようにサルトルは、一貫して人間の自由・主体性ということを強調しているのであり、人間は〈状況における自由〉であるという人間観をはっきりと保持しているのである。この点において彼は一切を客観的過程の中に解消する教条主義的マルキストや、一切を無意識の構造のなかに還元する構造主義者とは明らかに一線を画する。

 『弁証法的理性批判』において彼は、実存主義をマルクス主義内部に包摂することによって構造的(社会学的)人間学を構築したが、それによって彼が目指したのは、人間の主体性と社会・歴史の客観的構造を同時に把握することだったのである。

 (論文の)第1章から第4章まで、私はサルトルの思想的発展を〈自由と状況〉という視点から整序していくことを試みた。その結果からわかることは、彼の「思想史」というのは、己の思想を乗り越え、よりいっそう具体化してい過程であって、決して過去における己の思想を放棄するものではない、ということである。

 後期サルトルの思想の中には、はっきりとそれ以前の思想が生きているのであり、人間は〈状況における自由〉であるという思想は一貫して保持されている。

 それだけではない。サルトルは、まさに己の実践によって生涯この思想を生き続けたといえるであろう。サルトルが一貫して保ち続けた姿勢というのは、現実の徹底的な開示を目指して、自らの思想をたえざる批判の渦中に投入し、そのことによって自らの思想を乗り越えていくという姿勢であり、社会的・歴史的現実に全力で体当たりしていくことによって、そのつど己の思想的・実践的態度を決定していくという姿勢であった。

 現実世界へ積極的に関わり、現実に真っ向から立ち向かいつつ、たえず己の生と思想を乗り越え、創造していくという彼の生涯そのものが、〈人間は状況における自由である〉という彼自身の思想を、非常に活動的な力強い仕方で実現したものではないだろうか。

(注)

1)『存在と無』 187頁

2)『弁証法的理性批判』 386頁

3)    同      391頁

4)『サルトルと構造主義』 233頁

 サルトル/パンゴー他  平井啓之訳 竹内書店 1968年7月7日 第1刷

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2013.02.25
カテゴリ:哲学・思想

 ジャン=ポール・サルトルの思想と実践が多くの人々に対して生き方を左右するほどの影響を与えたことについて前記事で触れましたが、概略でもそれを紹介することはなかなか困難です。

 ここでは、学生時代に書いた文章(最後の部分)を以下に紹介・転載します。よろしければご一読ください。

 〔以下、転載〕

 サルトルはまず、想像意識の研究を通じて意識(人間)の自由について論じた。彼は、想像意識が目前の現実からはなれて非現実の世界(想像界)を志向するということに注目し、このような意識の「現実離脱のはたらき」を(現実に埋没している事物とは異なる)意識の自由としてとらえたのである。

 だが、想像意識が現実世界から離脱するといっても、現実とのかかわりを断ち切ってしまうわけでは決してない。現実世界は像(イマージュ)がその上に成立する土台として常に想像意識を背後から支えているのである。そしてサルトルは、意識によって生きられる現実世界を〈状況〉(シチュアシオン)と名づける

 このように、『想像力の問題』​においてすでに〈自由と状況〉ということが主題となっているのである。だが、想像(イマジナシオン)という特殊な意識を扱ったこの著作において、中心的な主題は「想像意識の現実からの離脱」といった抽象的な自由であって、意識(人間)によって生きられる現実世界(状況)の問題ではなかった

 自由な意識存在(人間)とそれをとりまく現実世界(状況)とのからみあいを正面から扱ったのが『存在と無』​である。意識は現実世界(及び自己自身)に対して距離をおくことによって、それぞれ固有の仕方で現実世界とのかかわりを形成していく自由な存在である。

 ところが、世界内存在である意識(人間)は、常に特定の場所に、特定の事物や他者に囲まれて存在するのであり、サルトルはこのことを「意識の事実性」としてとらえる。

 行動というのはまさに人間の自由の表現なのであるが、ここにおいて事実性というのは行動の状況として把握されるのである。サルトルによれば、「自由は状況のうちにしか存在しないし、状況は自由によってしか存在しない。(注1)」

 つまり、人間の自由な行動というのは何らかの状況でしか実現されず、常に現実世界によって規定され、拘束されているが、しかし、まさに人間はこの現実世界を土台として自らの行動を実現するのであり、そのことによって所与の現実世界を私の状況として意味づけるのである。

 このように、『存在と無』においては、自由と状況との絡み合いが正面から扱われている。しかしながら、『存在と無』における状況というのは、それ自体では意味・構造を持たない所与であり、私の自由な意識によって「私の状況」として意味づけられるものにすぎなかった。つまり、『存在と無』においては状況というものが抽象的にしか扱われておらず、「状況における自由」としての人間も、真に具体的レヴェルで解明されてはいないのである。

 具体的な状況というのは既に何らかの意味を持った社会的・歴史的状況なのであり、具体的な人間というのはこの状況によって深く規定された社会的・歴史的人間なのである。第2次世界大戦後サルトルは(状況への)アンガージュマンという思想と実践​によってさまざまな曲折を経ながらも、しだいに社会的・歴史的状況に対する認識を深化させていく。そして、そのことによってしだいにマルクス主義の真の意義を理解し、評価していくことになるのである。

 1960年の大著『弁証法的理性批判』​においてサルトルは、実存主義とマルクス主義を統合することによって構造的(社会学的)人間学を構築した。この仕事によって彼は、教条主義的マルクス主義を根底から克服していく道を開いたわけであるが、同時に旧著『存在と無』における自らの哲学をも乗りこえたのである。

 つまり、『存在と無』において、状況というのはそれ自体では無意味・無構造的な所与であったが『弁証法的理性批判』においては、それが客観的な意味・構造をそなえた社会的・歴史的状況としてとらえられている。

                                       後半に続く

(注)

1)『存在と無』 187頁

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Last updated  2019.09.17 11:05:02
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2013.02.11
カテゴリ:哲学・思想

 大島渚の死去から一ヶ月が経とうとしています。私は有名な映画監督だったということ以外、ほとんど彼のことを知りません。しかし、ネット上で調べていくだけでも、かなりの人々が「人生を左右するほど大きなものだった“大島渚との出会い”」について触れています。

 大島の映画もそうですが、彼自身の生き方・人生そのものが「本当にすごいものだったのだろう」と感じられるのです。

 私がなぜ、よく知りもしない映画監督のことを知りたいと思ったのか、ということなのですが、大島の死去が報道されたとき、彼の人生に大きな影響を与えたと思われる出会い(ジャン=ポール・サルトルとの出会い)があったことを思い出したからです

 以前読んだ『同時代人サルトル』(長谷川宏著)で私の印象に残った一部を引用しておきます。

 サルトルの反逆性を、おなじく芸術上の反逆者というべき映画監督大島渚は、こう表現している。自作の映画『絞死刑』のパリ封切の日、自身、上映後の質疑応答にちなむ一文だが。

 「どんな作家を尊敬しているか」
 そう聞かれた時、私の胸は高鳴った。
 「ジャン=ポール・サルトル」
 そう答えた時、私は目に涙がにじむのをおぼえた。この一言をいうために、十年、私は映画を作ってきたのではなかったか。監督になるための、映画をつくりつづけるための、あらゆる努力はこの瞬間のためにしてきたのではなかったか。私は『自由への道』の第三部『魂の中の死』の第一章の一文を思い出していた。

  「彼は手すりに近づいて、立ったまま射ち出した。一発一発が昔の躊躇への復讐だった。(・・・)かれは射ちつづけた。法律は空中に飛び散った。汝は殺すべからず。あの正面のイカサマ野郎に、バン・・・」
そう、私の映画も、昔の躊躇への復讐の一発一発だった。俺は射つぞ! 射ちつづけるぞ! バン、バン、バン。

 演技過剰の文章という印象なきにしもあらずだがサルトルへの熱い思いにいつわりがあろうとは考えられない。
 大島渚のいう十年は、1959年から69年にかけてのことで、それはもう、民主国家や文化国家の理念がまぶしくゆく手にかかげられる時代ではなく、高度経済成長がしだいに享楽ふうの文化を生み出す時代にあたっていて、だから、大島渚はうしろむきにサルトルと向き合うほかはなかった。

 が、うしろむきにせよサルトルとむきあうことができたのは、大島渚のうちで、残影としてであれ、未だ知と思想の力が信じられたからで、上映会場で大島渚をおそったせつない思いには、ひょっとすると時代の動向にたいする無念さがにじんでいたかとも推測される

  いずれにせよ、おのれの映画製作とサルトルへの思いをこのように情熱的にむすびつける大島渚のなかに、戦後民主主義という時代のはぐくんだサルトル像が生きていることは、うたがいようがない。 (引用は以上)

 大島渚の人生にとってジャン=ポール・サルトルの思想と実践が大きな影響をあたえていたことがうかがえますが、「大島渚と出会った人々」も含め、人生を左右するほどの出会いがあること、その大きな意味をあらためてかみしめています。

 映画監督大島渚以外にも、哲学者の竹内芳郎、長谷川宏、演劇人の唐十郎、津野梅太郎、鈴木忠志、作家の大江健三郎、デザイナーの粟津潔などをはじめとする様々な人たちがサルトルとの出会いの大きさを振り返りつつそれぞれの文章・コメントを残しています。

 ずっと下の世代ではありますが、私にとってもサルトルとの出会いが、「人生を左右するほどの大きな意味を持った」のでした。そして、同じ人物との出会いを通して、真剣に時代と向き合い実践する多くの人々が存在すること、存在してきたことは私にとって大きな励みになっています。大島渚の死をきっかけに彼の人生の一端に触れることで、「そのこと」をあらためて実感することができたのでした。

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Last updated  2019.03.10 00:02:45
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2008.07.28
カテゴリ:哲学・思想
疑わしきは断定せず

 私自身が、ブログコミュニケーションにおいて「大切にしている“基準”」があります。その基準・作法は自分で記事を書いたりコメントをする場合に心がけるだけではなく、他者に対しても強く要求していることが、このたび強く自覚できました。
 
 7月13日の記事『ブログでの発信責任と「批判される側」の姿勢』におけるコメントのやり取り(特に後半から最後のあたり)で実際に私自身が発している言葉「相手の意図は相手の心の問題だから断定すべきでない」がそれです。

 実際、私の目から見て「その基準に抵触している(つまり他者の意図を断定している)」と思われる記事や、「断定」を根底にもって書き込まれている「強い意見・コメント」に関して、「それは問題ではないか」「配慮が必要ではないか」という意見を強く出させていただきました。

 他方で「その基準」に触れない記事やコメントに関して妥当でないと思われる部分があった場合には、本人のブログ記事のコメント欄や私自身がアップする記事の中でいわば「やわらかく」指摘させて頂いています。

 従って、傍から見れば「ある人には厳しくある人には甘いのではないか」と見えるのも無理からぬことだったかもしれません。

 私がこのたび「意図を断定すべきではない」ということが自分の中で重要な基準となっていることを明らかにするのは、単なる「弁明」というよりも、積極的な意思を込めています。かなり考えたのですが「この基準」は単に自分自身の判断基準というよりも、ブログコミュニケーションにおいて「できるだけ多くの人が共有したほうがいいのではないか」と考えるからです。

 そのように考える根拠のひとつは「立場を入れ替えてみればわかるのではないか」ということであり、もうひとつは(前者と深く関連しますが)「外から人の意思を断定しない」ということが相手の人格・さらには人権を尊重する作法なのではないか、と考えるからです。

 確かに、私たちはブログコミュニケーションに限らず、常に相手の意図を想像し汲み取りながら言葉のやり取りをしています。そのことなしにはコミュニケーションは成り立たないといっても過言ではないでしょう。

 しかしながら他方で相手の体験や意思はまさに「その人自身が感じ取っている(あるいは創造する)体験であり」「外から完全に覗き込むことのできないその人自身の“心の問題”」でもあるのです。

 先ほど私は「立場を入れ替えてみれば」と書かせていただきましたが、もし仮に自分自身が次のように断定されたらどうでしょうか。「人物Sは常に自己正当化と自らの考えを乱暴に押し付けることを意図しており、その目的のためには絶えず論敵の主張を歪曲しねじ曲がった屁理屈をでっち上げる」

 あえて極端な場合を例示しましたが、仮に私自身が「自分の意図はそうではない」と否定しているにもかかわらず、外から「断定され」しかも「記事やコメントの形で不特定多数に向けて発信」されたとすれば憤りを感じないではいられないでしょう。

 第二に、「人格や人権の尊重」という観点からこれまたやや極端な例をあげさせていただきます。
 それは、警察による「容疑者」への事情聴取と情報公開についてです。

 仮に、状況証拠から考えて「極めて疑わしい」と考えられる場合・事例であっても「物的証拠や“本人の自白”」も得られていない段階で「容疑は濃厚」などという情報を外部に流すとすれば、明らかに「人権侵害」として責任が問われることになります。(松本サリン事件など、じっさいにありましたが、そんな情報が流され報道されることは実に暴力的なことです。)

 確かに警察の事情聴取・情報公開と「ブログでのコミュニケーション」を同列に扱えるものではないでしょう。しかしながら、現実にネット上の中傷で「人が死ぬ」という事態が起こったこと、「ブログ記事であれコメントであれ不特定多数に発信しているのだ」という事実を片時も忘れてはならないと思います。

 ネットの場合、発信責任(どこまでがよくてどこからがいけないか)が新聞や書籍等の場合と比較して曖昧になりやすいからこそ、私たちはいっそう注意・自覚することが大切だと思うのです。

 たとえ「極めて疑わしい」と考え「ほぼ間違いない」と確信していたとしても「本人が否定する意図(沈黙・黙秘している場合でもそうです)を「彼・彼女はこのようにもくろんでいる」と不特定多数に発信するべきでしょうか。そこには暴力的な意味はないでしょうか?

 相手の人格・人権を尊重することの大切さを真っ向から否定する人はいないでしょう。しかしながら特に何らかの言説を批判する時に「意図の断定」が行われる場合があります。しかしながら、そのように「意図を断定して立論しないこと」が相手の人格・人権を尊重し相互の信頼に基づく「ブログコミュニケーションを創造していく」にあたって大切なことではないでしょうか。

 この記事の一行目に書かせていただきましたが、「疑わしきは断定せず」ということを私は訴えたいのです。「批判すべきだ」と判断した場合においても、あくまで「言説の内容や言説がもつ意味」、「理論が提示されればその理論そのものの問題点」を批判すべきであると考えます。

 意図そのものを対象としたい場合であっても、前後関係から「このように思われても仕方がない」といった形で表現を慎重に選ぶことが求められるのではないでしょうか。

 それこそが、批判する相手の人格を尊重し「通じる言葉」を創造していくために大切な「批判の作法」であると考えるものです。


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Last updated  2019.03.30 09:08:50
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2008.07.24
カテゴリ:哲学・思想
前回の記事は「よたよたあひる言語論」の再検討と言いながら狭義の「批判」に力点を置いたものでした。ただ、彼女の「言語論」やその有効性については評価したい面も多々あります。
  
 私の基本的な立場は次のとおりです。
 「おしゃべり言葉」と「議論の言葉」を区分することには一定の意味がある(コミュニケーションに際して色々な示唆を与える)ということを認める。一般論として以下の二点はいずれも大切である。

1、「おしゃべり言葉」を発信する個人(または共有する集団)に届く言葉を発していくためには一定配慮すべき留意点がある

2、「おしゃべり言葉」を発信する個人もブログなどで不特定多数に公開する場合、当然配慮すべき点があり、批判を受け止め応答することも「発信責任」の一部である

 前回記事においては、一連のやりとりの教訓として2、を強調すべきだと主張しました。しかしながら1、は大切でないか、と言えば決してそうではないと思うのです。

 私自身、「よたよたあひる言語論」は特に日常のコミュニケーションにおいて多くの示唆を与えるものだと考えますので、以下、そこに焦点を当てながら彼女の「言語論」を私なりに(ある意味では自由に)要約しつつ、その意義について述べてみます。

 さて、「おしゃべり言葉」を発する個人(または共有するグループ)に対して「議論の言葉」で批判的に介入することが、何らかの「困難」を伴うということは、よたよたあひるさんの紹介した事例にかぎらず、色々な人たちが体験することではないかと思います。

 そこで彼女は二種類の言葉の違いに注目し、「おしゃべり言葉」は“関係性”(さらに発話時の状況)に依存する度合いが高く、さまざまな解釈が生じやすいという傾向を指摘するわけですが、これには一定の説得力があると思われます。〔( )は私が勝手に補いました〕

 そして「おしゃべり言葉」は(竹内理論ではその典型が「日常言語」なのですが)
1、状況・脈絡・発話者の人格に応じて適切に「解釈」することが重要となる
2、一種の「コミュニティー」を前提とするため、それに対して「外部から批判的に介入」することは違和感(攻撃されているという感覚)を伴いやすい


 ということも一般論としてはほぼ成り立つのではないか、と考えます。

 そして確かに、不特定多数に情報発信するブログ記事の場合は「例え相手がすぐ理解しなくても、相手の主張に対する見解・立場を明確にすること」自体にも一定の意味があると言えるでしょうが、日常のコミュニケーションの中では「通じなければほとんど意味がない」ということになりそうですね。

 事実、『文化の理論のために』の中で竹内芳郎も次のように指摘しています。

 日常生活における圧倒的多数のコミュニケーションにおいては「真理価値(命題の真偽や妥当性)なぞはあらゆる発話(メッセージ)の唯一の価値基準たる〈適切さ〉のなかの一事例でしかない。」
 「本当の意味で〈真なる発話〉となるためには、それがしかるべき発話場で〈適切に〉発話される必要があるのだ。」

 これは鋭い指摘だと言えます。実際、学校・家庭における教育実践の場面では「論理的に正しい言葉や“正論”」がそれ自体では“全く無力である”という事例には事欠かないでしょう。現実のコミュニケーションの場において「適切な言葉」を発するためには、上記1,2でまとめたような「おしゃべり言葉の傾向性」をしっかり踏まえることも大切なのではないでしょうか。

 ただ、念のために補っておきますが、日常の「音声・発話による言語」は「おしゃべり言葉」だ、ということではありません。 「音声言語」であっても例えば会議や討論における発話は「論理的な妥当性」が第一義に追求されると言う点で「第二次言語(論理言語)」的な性格が強いものとなります。
 それに対して「おしゃべり言葉は“共同体的な関係性”に依拠する部分が大きい」と言えるでしょう。

(ちなみに中・高生の年代で形成する共同体・親密な仲間集団は「馴れ合い・許しあい」的な「空気」に染まりがちな面があると同時に、ふざけたり騒いだり学校や親に対する愚痴を言い合ったりする中で「大人が押し付けようとする価値や論理」を相対化し、ジグザグに歩きながらも子どもたちが少しずつ「自立」していくための拠点にもなりうるものです。)

 他方で確かに、前回記事で述べたブログの言葉の場合(特にそれが「○○は○○である」といった「命題」や「主張」を発信する場合)は純粋な「おしゃべり言葉」として位置づけるべきではないと考えます。

 しかし、「論理より関係性に依存する傾向を持った言葉」(あるいはそのような言葉を共有するコミュニティー)に対しては、「多様な解釈が生じやすい」ということを踏まえたり、「異論を提示するに際して」(それが「適切な」メッセージとなるためには)一定配慮することが望ましい、とは言えないでしょうか。

 よたよたあひるさんは「その2」の結論部分で「書き手の意図を確認する作業は丁寧に行う必要があります」、「書き手自身の言葉がまだまだ未整理な状態であるときには、“批判”が“人格攻撃”として機能してしまいやすい」、「関係をまず作るところからしか批判も指導もなりたたない」などと言い切ってしまったので強い違和感を生み出すことになりました。

 また、私自身も上記の主張には問題がある(一般論としては妥当でない)と考えています。

 ただ、一般論として言えなくても状況によっては、そのような言葉を発する人の人格や背景も含めて読み取ることが 「届く言葉」を発するために必要な場合も確かにあるでしょう。
 そして、ブログの言葉以上に、学校教育・家庭教育の具体的な場面や生身の人間同士の実際のコミュニケーションにおいてはなおさらそうだ、といえるのではないでしょうか。

 そのような意味で「よたよたあひるさんの考察」は、適切なコミュニケーションの創造に際して「一つの角度から」貴重な示唆をもたらすものであると考えるのです。


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Last updated  2019.03.25 23:20:56
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2008.07.22
カテゴリ:哲学・思想
このたびの考察は、よたよたあひるさんが7月11日に書かれたブログ記事『関係性への依存「議論」と「おしゃべり」その3』(およびそれに先立つ「その1」 「その2」)についての批判的再検討を目指したものです。

 なお、この再検討を進めるに際しては、竹内芳郎著『増補 言語・その解体と創造』(筑摩書房)および『文化の理論のために』(岩波書店)で展開された「言語論」「コミュニケーション論」に負うところが大きかった、ということを付記しておきます。
 
 私自身は、彼女によって提起された「言語論」の妥当性に主要な関心を持っているのですが、なにぶんいまだに「論争」が続いている問題を含んでいますので、さしあたって私自身の基本的な立場(「再確認」した立場)を明らかにしておきたいと思います。

 わたしは上記ブログ記事でよたよたあひるさんが示された仮説の実践的有効性(例えば日常のコミュニケーションにおける留意点が見えてくる等)を一定認めつつも、その仮説からただちに「伝わる言葉」を語るために・・・その2 で示されたような結論を導くことには無理がある、と考えます。

 よたよたあひるさんが このたびの一件(「“しょう”のブログ 6月28日の記事のリンク をご参照ください)から「一般的な教訓を引き出そうとした」という点について疑っているわけではありませんが、その教訓の力点は前回述べたように「“言葉”をブログ上で発信する場合の留意点、そしてそれが“批判”を受けた場合の留意点」におくべきであろうという立場をとるものです。

 さて、実は彼女の示した「言語理論(仮説)」は、以前私が愛読していた竹内芳郎著『言語・その解体と創造』で展開されていた理論とかなり似かよったものでした。

 私がもっとも尊敬している現代の思想家である竹内芳郎は「書くことにいったいどんな意味があるのか」という真剣な問いを発しつつ上記の書を著わしたのですが、氏は「言語」を(概略)以下のように分類します。

1、発話場や関係性への依存度が高い第一次言語・・・典型的なものが日常言語(日常の「おしゃべり言葉」)
 これは、発話場の状況や関係性によって「解釈」される言語(状況や発話者の個性を読み取ることによって適切に「解釈」される)
2、発話場や関係性への依存度が低い(独立した)第二次言語・・・ア、論理言語(論説や哲学書などに用いられる)、イ、文学言語(小説、詩歌などに〃)
論理言語・・・言語の「明示性」(「明確に“対象”や “意味”を指し示す」という働き)を生かした言語
文学言語・・・言語の「含意性」(言葉そのものが発散するイメージや音調・リズムが創り出すイメージ)を生かした言語

Q 第二次言語の意義はなにか?
A 日常言語では表現しきれない“沈黙”(=「人間の真実」や「社会の真実」)を表現すること

 以上、私流の要約なので不充分ではありますが、『言語・その解体と創造』における言語論の概略です。

 実は、私が書いた前回のブログ記事も上記の理論をふまえたもので、そこから発話場や関係性への依存度が高い『おしゃべり言葉』の典型は『ブログ上の言葉』よりも『よく知った人間同士の日常のやりとり』ではないか、と述べたのです。

 そうすると、よたよたあひるさんの「言語理論(仮説)」は日常のコミュニケーションや学校教育・家庭教育の具体的な場面でこそ多くの示唆を与えるものだ、と言えるのではないでしょうか。私はそのように受け止めましたし、kurazohさんが「感銘を受けた」といわれるのも「日常の教育実践(子どもや保護者とのやりとり)」を想起されたからではないか、と思われるのです。

 そもそも彼女の発想の出発点が「中学生たちの交流の場で、個人情報についてちょっと不用意なところがあったので、おせっかいに介入してかえって混乱させてしまった」という体験だったというのも、決して偶然ではないと思われます。それはまさに日常のコミュニケーションの場(発話場)における「教訓」だったのでしょう。

 しかしながら、ブログ上の言葉においても同じことが言えるでしょうか。もともと批判の対象となった“すずめさん”のブログ記事は「典型的なおしゃべり言葉の極」にあると言えるのでしょうか? 実は、「よたよた仮説」として示されたグラフの「グレーゾーン」に当たるのではないか、と私は判断いたします。

 竹内芳郎によれば発話行為(広義の「言語」を創造する行為)によって命題も発生します。(『文化の理論のために』)
 命題と言えば「三角形とは三つの辺を持つ図形である」といった数学のそれを思い起こす人も多いと思いますが、例えば「人物Aは卑劣漢である」、「アル・ゴアは偉大な人物だ(ペテン師だ)」といった状況判断を伴うものも含みます。

 そうすると、 問題のブログ記事の結論部分にあった「○○することは保護者の責任だ」というのも一つの命題であると判断できるわけですが、こと命題となればその「真偽」や「妥当性」が問題になってくるわけです。

 典型的な日常言語(とりとめのない「おしゃべり言葉」)は「命題」を発生させない場合が多いのですが、「問題となった記事」は明らかに一つの命題として提起されており、それに対して賛成・反対の意見が述べられるのは当然だと考えられます。(この命題が不特定多数に向けて発信されている場合はなおさらでしょう。)

 よたよたあひるさんは、 「記事に書かれた内容そのもの」だけでなく、「記事を書いた人の立場を考えた上での発言が持つ意味」というメタ・メッセージに対する批判が一種の「人格攻撃」として受け取られた、という指摘をされています。

 しかし、そもそも 「命題」に対する批判というのは本質的にそのような「誰がどのような状況で発信したのか」を含む「総合的な批判」となるのではないでしょうか。 例えば「人物Aは卑劣漢である」という命題も、人物Aが誰であるか、Aのどのような状況における言動を評価するか、ということが当然問題になるわけです。

 また、「三角形とは三つの辺を持つ図形である」という命題にしても、それが「数学の授業中」ではなく「駅のホーム」などで叫ばれれば「とんでもない(妥当でない)」と判断されますよね。従って発信した言説に対する批判が「記事を書いた人の立場を考えた上での発言が持つ意味」や「ある状況における特定の立場の人が発する言説」に対する批判となるのは当然だと考えられるのです。

 よたよたあひるさんは「相手に届かなければ意味がない」ということを述べておられますが、そうとも言い切れないところがあります。

 『文化の理論のために』の中では、言葉を発することを通して、実現される行為(行為の意味)の重要性が強調されていますが、問題のブログ記事に対する「批判の言葉」を通して実現された(行為の)意味は、二重であると考えられるのです。それは、第一に「批判することで容認できないという立場を明らかにすること」であり、第二に「相手にわかってもらう(通じる言葉を発する)こと」であります。

 私は、まずろさんのコメント欄である保護者から受けた指摘(=「本人に理解し反省してもらうのが一番いいが『悪いことは悪い』といってもらうことも大切だ」)がかなり印象に残っています。

 そのような観点からすると、多少「厳しい口調・表現」になったとはいえ、書き込まれた批判が無意味だったとは言えないでしょう。確かにいちろうさんも言われるように厳しい口調・表現による「正論」に反発する人は数十人に一人(あるいはそれ以上)いるかもしれません。

 しかし、子どもを持つ保護者十人に聞けば九人の人は「批判は当然」と判断されるのではないでしょうか。最初の段階で本人が批判を受け止められなかったのも、コメントを最初に書き込んだ人への先入観や「自分が属する団体(日教組)はとかく攻撃の的になるのだ」といった先入観が背景にあったと考えられます。

 とすれば少なくとも「この事例」に関して「おしゃべり言葉」と「議論の言葉」とのすれ違い、という枠組みで説明・一般化するのは妥当でないと考えられるのです。

 確かに、「問題となった元の記事」は典型的な「議論の言葉」というより充分に練れていないという点では「おしゃべりの言葉」のゾーンに入るか接近しているとは言えるでしょう。しかし、そのような言葉で「一種の命題」を発信する場合にはなおさら不特定多数に公開する場合の留意点、そしてそれが「批判」を受けた場合の留意点をこそ意識する必要があると考えます。

 よたよたあひるさんは「公平な判定(ジャッジ)」を意図したものではないし、批判した側とされた側のいずれかに責任を負わせることを意図したものではない、と言われます。しかし、その出発点において彼女なりの「一つの判断(ジャッジ)」がすべり込んでいると感じるのは私だけでないでしょう。

 すなわちそれは、最初の時点で「すれ違い」ないし「誤読」があったのではないかという判断であり、そのために「感情的な議論」になってしまったのではないか、という判断です。確かに当初の「正論」による「批判」に対して反発があったことは事実でしょうが、厳しい(難しい)現実から出発して何とか「届く言葉」を発信していこうという姿勢・実践は特に「まずろさん」の記事の中に顕著に見られるように思います。

 よたよたあひるさんも含めてさまざまな人が「ブログ上での意見発信・意見交換」をする中で、少なくとも「当初問題となった記事」の妥当性については本人も含めて「合意」が成立していった、と考えていいのではないでしょうか。

 以上、このたびの記事においては、「よたよたあひる言語論」の批判的検討が中心になりましたが、なにより「適切さ」こそが問題になる日常のコミュニケーションや学校教育・家庭教育の実践においては多くの示唆を与えるものであると受け止めています。いつになるか自信はないのですが、そのテーマについても何とかまとめてみたいと考えています。

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Last updated  2019.03.25 23:21:43
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2008.07.13
カテゴリ:哲学・思想
よたよたあひるさん  

 本当にお疲れ様でした。 あなた自身の直感や体験を「議論の言葉(論理言語)」で表現していく大変な努力 に敬意を表します。前回の記事よりもわかりやすく納得しやすい内容にまとめておられると思います。

>(おしゃべりの言葉は)読み手と書き手の関係性で読み取りに大きな差ができてしまいます。
 一般的な「教訓」を引き出す上で、前回記事の表現よりも説得力を感じます。

>今回の一連の「議論」がすれ違っていったのは、当初は「その表現は関係性の異なる場では理解されないはずで、立場を明らかにしているものの発言としては不適切」という強い危機感を持った方の批判が、うまく伝わらなかったということに始まっていたと私は考えています。

>この当初の批判が、「記事に書かれた内容そのもの」だけでなく、「記事を書いた人の立場を考えた上での発言が持つ意味」というメタ・メッセージに対する批判、だったために、「記事を書いた人への批判・・立場を含む人格攻撃と言ってもいいでしょう・・」として受け止められてしまった、ということが原因なのではないでしょうか。

 この点についてもそう思います。 「おしゃべり言葉」を発信する個人(または共有する集団)が、「外からの批判」に対してどのように反応しやすいか というこのたびの指摘は前回かかれていた主張と比較しても「より広い観点から留意点を示唆したもの」であると考えます。

 「力点」を修正しつつまとめておられるような印象はありますが、あなたが「すれ違い」といわれた意味がある程度わかったように思います。
 ただ、それでも違和感は残るのです。

 実はあなたの言われる「議論の言葉」と「おしゃべりの言葉」についての説明は「だいたい想像していたとおり」だったのです。が、そこから 「引き出すべき教訓」については、別の観点から明確にする必要がありはしないか、 ということを感じています。

 というのは、あなたが力点を置いて展開しておられるのは 「批判する側が配慮すべき事項」「“おしゃべりの言葉を使っている個人”に対して“届く言葉を”を発していくための留意点」 であるように見えるのです。

 そして、確かにそのこと自体はとても大切なのですが、わたしは 「おしゃべりの言葉」をブログ上で発信する場合の留意点、そしてそれが「批判」を受けた場合の留意点こそ多くのブロガーが共有すべき重要なポイント であるように思うのです。

 もっともあなたの意図は、例えば次の文からも伺えるように、それをも含めて「教訓」にすることだったと思われます。
「立場が発するメタ・メッセージ」は、「おしゃべりの言葉」の場での意見交換を行うときに(そして場の外へ発信するブログの場合)大きな影響力を及ぼします。〔( )内は引用者〕

 ただ、不充分になっている印象は受けます。連載の「大作」を書かれるに当たってあらゆる観点を充分展開することは難しいですし、以下に書くようなことはあなたが直接「回答」しておられる「まずろさんやPsycheさん」にとっては「分かり切っていること」だからかもしれませんが・・・。

 あなたはブログ上の言葉について分類しておられます。(作成された図「よたよた仮説 ブログの言葉」は秀逸だと思いますね。)ただ「関係性に依存したおしゃべりの言葉」が使われる典型的なケースはブログ上というよりも「よく知った人間同士の日常のやりとり」でしょう。 

 そこでのコミュニケーション手段は文字ではなく「音声言語」であり、さらに表情や身振り、音調・沈黙などの「副言語的要素」が重要ですね。そこでは例えば「正しい言葉」が発せられなくてもコミュニケーションが成立してしまったり「周りの表情から空気を読む」ことが求められたり、するわけです。

 さて、それに対して「文字言語」の場合ですが、例えば発刊される書籍であればそのような「言語場=コミュニケーションの場」から独立しているわけですが、ブログ上では「そのような場」が成立してしまうのですね。(確かにそれがいいところでもあります。)

 しかし、「おしゃべりの言葉」をブログ上で発する場合、「これくらいいっても大丈夫」とか「大体わかってもらえる」とか「互いに頷きあう関係だから批判など受けない」といった日常的な仲良しグループのコミュニケーションにしばしば見られる「関係性に依存した甘え」の意識を持ったまま、不特定多数に「問題となるメッセージ」を発信してしまうことがしばしば起こりえます。

 そして、不特定多数に発信しているにもかかわらず、発信責任を問わない空気を共有してしまうわけです。(ブログ上のコメントにあった「このブログはほのぼのとした気分にさせられる」「空気を読んで・・・」といった趣旨の発言、批判的書き込みが「浮いている」といった発言。また、「このブログのメッセージには論理的な批判はなじまない」といった趣旨の発言等)

 私自身が思い起こすのは、普段心地よい関係を作っている「私的グループ」が、「外からの(別の生徒による)批判」や「教職員の指導」に対して過敏に反応・反発し、「論理的」な言葉をなかなか受け入れられない、といった体験です。本人たちはそれこそ「上からの目線」を感じる傾向が強いので「伝わる言葉」を発することが相当に難しい。

 しかしながら、 「子どもと大人(保護者や教職員)の関係」であればともかく、大人どうしの世界であれば、あなたのブログにも複数の人が書き込んでいるように「責任が問われるのは当然」なのです。心地のよいコミュニケーションの最中に「批判」を受けた場合にも、言わば「シフトチェンジ」して「批判に対して誠実に応答したり討論していくこと」ことは大切だと考えます。 

 「このたびの混乱」を契機に多くのブロガーが共有すべき教訓を考える場合、むしろそちらに力点を置くことが大切だと思うのです。

(なお「総括」の観点とは違いますが、「Authorまずろ」のブログでしばしば見られる「随筆風の美しい文章」は示された表の中に位置づけにくいのでは? と思っています。できればその点も含めて書いてみたい気持ちもあります。)

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Last updated  2019.03.25 23:22:26
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2008.06.28
カテゴリ:哲学・思想
kurazohさん

 コメント、およびトラックバックありがとうございました。
 実は前回の記事は、“よたよたあひるさん”の記事「ブログでの意見交換って楽しいけど難しいよね・・」に反応して私自身の体験をもとに一般論として書いたものでした。

 つまり、私は“すずめさん”のブログkurazohさんのブログ等でどのようなやりとりがあったのか、ほとんど知らない状態で記事を書かせていただいたのですが、コメントの応酬を読ませていただいて、JSミルが100年以上前に述べていた議論のモラルがどれほど大切なものであるか、あらためて感じます。

 JSミルは「さまざまな意見の表明される現実の討論の場には、表現の自由と相互批判とを大切に思う同士ともいうべき人々が、まちがいなく存在すると実感できて」いました(『今こそ読みたい哲学の名著』長谷川宏)

 一部、前回の繰り返しになりますが引用しておきます。
 「反対意見とそれを主張する相手の実像を冷静に判断して誠実に説明し、論争相手に不利になることは何ひとつ誇張せず、論争相手に有利な点や有利だと見られる点は何一つ隠さないこと(・・・)が公の議論にあたって守るべき真の道徳である

 この道徳が無視されることは少なくないが、それでも、この道徳をほぼ守っている論者は多いし、守ろうと誠実に努力している論者はさらに多い。この点を私は心強く感じている、」と。

 この言葉は、討論においては相手の「言説そのもの」を誠実に理解するよう努めつつ、建設的な相互批判を行うことの重要性を強調したものであり、不毛なやり取りを乗り越えていくべきことを述べたものでしょう。

 ところが、現実には(特に日本においては?)ブログ等での言説に対する批判を「人格攻撃」と受け取り、批判的言説そのものに対する反批判ではなく「人格攻撃」を返してくる、ということが少なくないようです。

 「人のブログに来て『お前の言うことは間違っている』といった批判をするお前は何者だ(人を見下す非常識な人間だ)」といった具合に・・・。

 私は組合の全国教育研究集会をきっかけに「高生研(民間の教育研究団体)」の活動に深く関わるようになりました。(ついでに言うと組合の執行委員も2年間ほどしたことがあります)

 つまりkurazohさんと私とはまったく違った体験をしてきており、それを背景とする見解の相違も当然あるわけですが、そのように異なる人間同士が相互に批判し学びあえる討論を積み上げることは大変有益であると思うわけです。 実際に有益でした。

 「どうせ教育委員会的な発想の持ち主だろ」「自分のことを組合的な人物と思っているんだろ」と“心のありようや姿勢”について憶測し断定するところからは不毛なやり取りしか生まれませんね。

 確かにkurazohさんは厳しい面を持った人ですが、それは基本的に「教育実践や学校の姿勢は当然学校外の批判に耐えうるものでなければならない」という“倫理意識”から来るものでしょう。

 私も自分なりに「学校づくり」の視点を持って実践しているつもりですが、kurazohさんのような人が職場にいれば、まちがいなく貴重な存在であると思います。

 民間教育研究活動では、実践分析を大切にしていますが、具体的な報告に基づいた批判は大変有益です。しかし、文章の背後にある“心”や“日常の教育実践の姿勢”を憶測し、批判するにいたっては、まったく不毛なやり取りしか生まれないわけです。

 批判は具体的な実践や言説に基づいて行うべきである、ということは意見交換していく際の最も重要なモラルであると考えます。

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Last updated  2019.03.25 23:24:51
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2008.06.26
カテゴリ:哲学・思想
よたよたあひるさんへ

 トラックバックありがとうございました。
 私もハンドルネーム(shchan_3)を使われた「なりすまし」のコメントでとんでもない書き込みをされたことがあります。

 そのきっかけは昨年の10月、アル・ゴア氏に対する批判的意見(例えば「ゴアは100%ペテン師だ」)を掲載した複数のブログに対する反論を私なりに論拠を示しつつ書き込んだことです。

 それが、相手には「ブログ荒らし」に見えたらしく、上記のような「報復」をしてきたようです。そこで私は確かに「配慮の大切さ」も感じたのですが、それ以上に「異論をぶつけ合う討論の価値」を広く共有することの重要性を感じました。 

 19世紀の思想家JSミルは『自由論』の中で「思想と表現の自由の社会的重要性」を次のように述べています。

「(意見の発表や表明を抑圧することは)その意見に反対する人が被害を受ける。その意見が正しかった場合、自分の間違いをただす機会を奪われる。その意見が間違っている場合にも、間違っている(妥当でない) 意見にぶつかることによって、真理ををそれ以前よりしっかりと、活き活きと認識する機会を奪われる 」と。

 ミルは、「人間が完璧になるまでは、意見の違いが有益である」と主張するとともに、次のように述べます。

 「どのような意見を持っている人であっても、 反対意見とそれを主張する相手の実像とを冷静に判断して誠実に説明し、論争相手に不利になることは何一つ誇張せず、論争相手に有利な点は何一つ隠さない ようにしているのであれば、その人にふさわしい賞賛を与える。以上が公の場での議論に当たって守るべき真の道徳である」と。

 私たちのブログは空間を越えてそのような議論を成立させる武器にもなりうると思いますが、なかなか行いがたいと言うのも現実です。

 私のブログの記述に対して「明確な論拠を示しつつ反論」してくださったのはkurazohさんでした。正直なところ、最初は「この人何者?」と思いました。しかし、意見交換において大切なのは、「誰が語るか」ではなくて「何を語るか」だと思い直しました。

私はkurazohさんとの(読み返してみると結構面白いコメントの)

一連のやりとり(「日本の子どもの学力低下は本当か」をめぐる) を経て、

 「民間教育団体(高生研)における私自身の体験」 

 「学校の力を高めるために有益だと思われる実践」の紹介 

をしていく方向で、かなりの記事を書くことになりました。そのきっかけはkurazohさんの「批判的意見」であり、私にとって(もしかしたらU高校の実践などを読んでいただいた方にとっても)有益だったと考えています。

 最低限「異なる意見を受け止め、応答する」ということは「意見を不特定多数に発信することに伴う責任」であり、「異論を交換するのが当たり前、」という意識をぜひともみんなで共有したいものですね。

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Last updated  2019.03.25 23:36:13
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2008.03.20
カテゴリ:哲学・思想
総合学習とサルトル・竹内芳郎 2

 第二に「部分合理性」のみを追求する個別的諸科学を超えていくためにサルトルや竹内芳郎の強調する方法は、全体化(現実の事象を分析的に個別化して認識するのではなく、常に他の事象との関わりの中へ、より広い全体の中へ位置づけていく方向で把握すること)である。

 サルトルはこれを個別的な諸科学を包括する「人間学」の方法とすべきことを主張するのであるが、この「全体化」は同時に人間の行動・実践には常に含まれる契機でもある。

 たとえば彼は次のように言う。一つひとつの行動において、欲求を実現しようとする投企(もくろみ)に照らして、主体をとりまくバラバラな現実が、欲求充足の場として全体化される(人間によって全体として把握される)と。(注5)

 ところで、以上のようなサルトルの<点は、城丸章夫(教育学者)の 「総合学習論」 とよく重なっているように見える。例えば城丸は言う。行動というモメントがある時、行動主体の前にものごとが「総合化・構造化」される、と。(注6)

 つまり、ある目的意識を持って行動する主体は、自分を取り巻く現実を(バラバラな「所与」としてではなく)一定の構造をもった「情勢」として総合化(全体として把握)するのである。

 例えば、生徒会行事やHR活動に取り組む際、活動主体(例えば力のあるクラスのリーダー)は行動を媒介にして現実(クラスの現状や人間関係等)の具体的全体をとらえ、一定の見通しを持って周りに働きかけていく、というわけである。

 そしてまた、言わば 「社会の形成者」としての実践的な課題意識から出発する時、従来の個別的諸科学は「社会を形成するために現実を認識する方法」として意味づけられることになる。

 竹内常一にならって定式化すれば、「実践的な課題意識の確立→具体的な現実の科学的認識→具体的現実を総体として把握(現実の「全体化」:引用者)→現実に働きかける実践的な見通しの確立」(注7)となるであろう。 

 そして、そのような視点に立つ時、まさに個別化・細分化された諸科学の枠を越えて現実を総体としてとらえていくこと、「総合的な生きた知」を求めていくことの大切さ を確認することができるであろう。(注8)


注5)『弁証法的理性批判』(人文書院)第1分冊 89頁 ( )内は引用者
注6)竹内常一著『教育を変える』(桜井書店)214頁
注7) 同  217頁 ( )内は引用者

注8)竹内芳郎氏もその著書の中で、科学のあるべき方向性として人間疎外を生み出した「巨大科学」とは異なる「世界内科学」を繰り返し主張しているが、ほぼ同一の問題意識に基づくものといえるであろう。


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Last updated  2019.03.23 20:11:06
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